【小説を推敲する】歌仙の夢1 第5稿

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小説は推敲する物。

最初から完成稿が書けるわけではないです。

 

と、何度かあちこちで書せていただきました。

 

↓こういう説明も動画を作りました。

(1) 小説の書き方 『第一稿、第二稿』の意味 - YouTube - YouTube

 

長いので、実際に、テキストを記事にコピー&ペーストしていきます。

 

同じ小説の、多少違ったバージョンが

いくつも記事になりますが、ご了承ください。

 

今回は↓この小説の第一稿から、第五稿までです。

[R-18G] 【刀剣乱舞 兼歌】歌仙の夢 桜湧 | 晶山嵐 #pixiv 

 

 『歌仙の夢 桜湧(おうゆう)』第5稿。

「なぁ、どうしてあんなことしてんだよお前!」
 本丸の片隅で、和泉守兼定が近侍の歌仙兼定を問い詰めていた。そのまま首を掻きそうな勢いだ。
「あんなこととは?」
 対して歌仙は、海のように深い色の衣を着込んでふわりと笑んだまま、まともに和泉の顔を見ようともしない。
 歌仙が他人を真正面から見ないのはいつものことだ。
「よその藩のジジイの下で股を開いてたことだよ!」
 和泉が迫ってくるから歌仙は下がり、すでに本丸の外壁の隅に押し込められている。和泉の長い腕が白い壁に突っ張り、こすれすぎたのだろう、その指から血が伸びた。彼が怒鳴るとその長い黒髪が、歌仙に巻きつこうとするかのように舞い上がる。
 先程、和泉はみなのいる前で歌仙を見つけ、「誰も来るな! 叩っ斬るぞ!」と怒鳴って歌仙を連れ出したので、辺りには誰もいない。
 いつもは明るく調子の良い和泉だが、たまに喉が枯れるほど激昂して怒鳴りまくることがある。そういう時はなんの取りなしも聞かない。和泉自身が自分で納得して落ち着くまで、絶対に止まらないのだ。誰かが取りなしに入ったら、余計にその怒りは長引いてしまう。イタズラ好きの短刀達も、誰一人こうなった和泉を覗こうとはしなかった。
 数度しかそうなったことは無いが、毎回歌仙がらみだったので皆納得している。
 歌仙に関することで和泉をからかってはいけない。
 それは、この本丸での不文律だった。
 和泉も、激しい性格だからといって無為に手を上げる男ではない。自分の強さを知っている。
 彼らは普通の人間ではない。血で血を洗って生きてきた刀の付喪神だ。その『強さの差』には、人間のような限界がない。
 人間ならば、巨漢の寝返りで子供が押しつぶされたとしても、痛い、とか、骨折あたりで済む可能性が高いが、付喪神の世界でそれぐらいの強さの差があると、最悪、存在そのものを抹消される程の危険性があった。
 歌仙が審神者に召還され、本丸で刀を参集し始めた四振り目が和泉だ。そこから歌仙と共に血戦をくぐり抜けた彼は、歌仙には未だ及ばないものの、堂々たる最古参の一番太刀。陸奥、鶯丸、次郎太刀がそれに次いでいるが、力の差は歴然だった。堀川国広も、この本丸にたどり着いたのが遅く、とてもではないが激怒した和泉を押さえるだけの力は無かった。和泉が激情のままに手を振り払っただけで、堀川の首が吹っ飛ぶ可能性もある。 
 だが、勢いがあるだけで、和泉自身は『乱暴者』というわけではないのだ。日々、非常にうるさいし、よくモノを壊すけれど、口があるものに力を奮うことは少ない。
 そのくせがあるからだろう、こうして歌仙を追い詰める時でも、その体には触らない。歌仙は和泉に、よしんば殴られてもペチッと痛いだけで済むが、短刀なら強く引き寄せられれば肩の骨が外れる。
 和泉がそう簡単に触れてくることが無いとわかっているからか、歌仙も普段通り、しゃなりとそこにいるだけだ。
 総勢三六振りの刀が集まったこの本丸で、最初から近侍として采配している歌仙は、その経験値も高く、手抜かりも無いので誰も逆らえなかった。否、逆らおうと思うことがまず無い。
 和やかな笑顔でまわりを和ませ、雅びを解さないと言ってたまに厭味を言う人間味もある。戦場での雄姿も勿論皆知っているから、みくびるものなど一人もいない。
「君は、黙っていれば雅びなのに……」
 と、和泉にため息をつく姿ももう皆慣れっこだ。たまに、歌仙が和泉の髪を梳っていたり、和泉を派手に着飾らせたりすることがある。どこのお姫様だお前は、と、みな、目を細めて眺めていた。最近ではそれに堀川が加わったので、和泉はたまに歌舞伎者と化していることもある。
 そういうときは和泉もしばらくしゃなりしゃなりとしているのだが、やはり生来の気性が激しいために、すぐに騒ぎを起こして歌仙に怒られる。黙る。うろうろしだす。騒ぐ。その繰り返しだ。
「歌仙は? 歌仙どこにいる!」
 和泉がそう喚きながら本丸中を駆け回っているのも日常風景だ。他の者では手合わせの相手にもならない。ヒマがあれば歌仙と手合わせしたがって、騒いで、怒られて、シュンとして、歌仙の傍で正座して、足が痺れて転がって、それでも歌仙に無視されて、喚きだして、道場に殴りこんで一〇〇人乱取りを仕掛けてようやく収まる。
 本丸の天気は和泉次第と言っても過言ではない。
 そんな和泉が歌仙を引き連れて『覗くな』と言われたら、誰もがその反対側に固まって壁を愛でるしかないのだ。次郎と陸奥と薬研だけが、お互いに目を見交わしてくちびるを噛む。
 以前の和泉の大噴気は、歌仙が怪我を隠して出陣したことだった。しかも、和泉をかばって重傷になったのだ。せっかく手入れが終わって出てきた歌仙を、また重傷にするのかと言うほど衿を掴んで振り回していた。
「俺はてめーを守るために出陣してるんだっ! 俺をかばっててめーが重傷になってどうするっ! 俺たちどうしていいかわかんねーだろっ! 御大は後ろで俺たちに命令してりゃいいんだよっ!」
 しごくもっともな言い分で、みな頷いた。だが、仲間である和泉をかばった歌仙を責めるのも忍びない。ただ、進行方向を知っているのも歌仙だけなので、歌仙が重傷で口も聞けない状態になってしまうと、帰還も大変だったのだ。報告書には、『進軍先』までしか記述されないが、奥にいけば行くほど『帰還』も同じだけの戦闘が勃発する可能性は高い。重傷者を担いで山間を忍び帰るのは簡単な話ではなかった。
 和泉の大噴気はそういうものだとみなわかっている。自分のためではないのだ。歌仙が危ないから怒っている。今回もそうだろうとみな思った。
 新参の者たちはそれに口をはさむことはできないし、和泉以外の最古参は短刀だ。太刀に怒鳴られては吹っ飛ばされる。強いて言えば鶯丸も最古参の一人だが、彼はこういうときに割って入る性格ではなかった。
 遅参した堀川とて、歌仙のことに関しては和泉に何をいう口も持ってはいないのだ。以前は相棒だったけれど、今生での歌仙と和泉との距離は、自分よりはるかに近い。堀川と和泉が前世で一緒に居た時間より、歌仙と和泉が今生で共に過ごした時間の方が長いのだ。
 そんな各所の思惑の中、誰も引き止めないまま、歌仙は城の隅で和泉からの憤怒を被っていたが、涼しい顔をしている。それがまた、和泉は肚立だしい。
「要領よく話してくれないか? 君の怒鳴り声は、言葉が聞こえないのだよ。何を怒っているのだね?」
「こないだの遠征に、隠れてついて行ったんだよ!」
「誰が?」
「俺がに決まってんだろっ! ここで陸奥がついていった話しすると思うのか! てめぇはっ!」
「君が何を話したいかなど、僕が知るはずないだろう」
「あーーーーっ! またそうやって話し逸らそうとするっ!」
「逸らそうとはしていないよ」
「うるせぇっ! 黙れっ!」
「君の声が一番うるさいだろう」
「俺の言うことを聞けぇっ!」
「だから、聞くから、声を落としてくれ、と言っているのだろう。君の声だけで、この壁が壊れそうなのだから」
「だか…………っ……ガフッ!」
 和泉は、喉に正拳突きを受けてむせ返った。それでも、両手は壁からはなさない。
 咄嗟に跳ねたしずくで汚れた手を、歌仙は和泉の服で拭って大きく息をついた。
「私は話を逸らそうとはしていない。その証拠に、ちゃんと話を戻して上げるよ。君が、前回の遠征に隠れて着いてきたと言ったところからだ」
 多少痛みが走る自分の手首をさすりながら、歌仙はそこに吐き戻している和泉を眺めた。
「なっ……んで、俺たち付喪神なのにっ……、内臓なんて……っ……あるんだクソウッ!」
「人の姿を取ったからだろう。人に近づくために顕現したのだから、人の姿を借りるのが一番人にわかりやすい。その時に、この機能は必要ないから、などとより分ける方が面倒だろう…………と僕は考えているよ」
「美味い飯が食えるのは嬉しいがな」
 何度も大きく息をついて、ようやく和泉が顔を上げた。
 アー、アー、と痛んだ喉を伺いながらも、歌仙を睨み付けている。普段これだけ時間があけば先程の怒りなど忘れていそうなものなのに、その視線がそれを否定していた。
「三度目の正直だな。お前、遠征先でなんであんなことしてた」
 嗄れた声で低く唸られて、歌仙はふわりと微笑んで見せた。だが、いつもなら見とれて茫とする和泉に、それは効かないようだ。
「あんなこと?」
「何度言わせるつもりだっ!」
「最初の数度など、君が怒鳴っていたから、何も聞けていないと言っただろう」
 ガリガリガリッ、と和泉が自分の頭を掻きむしった。その指に抜けた髪が絡みつき、爪に血がにじんでいる。その手でまた壁に手をついて、歌仙と鼻が触れる距離で唸った。
「お前が、太った爺の下で足を開いてたことだよ」
 血のにおいが歌仙の息を止めたいかのように圧迫してくる。
「なぜ?」
「なぜ!」
 ひょうひょうと聞き返してきた歌仙に、和泉は怒髪天をついた。
「なぜ、君はそんなことが聞きたいのかな」
「なぜっ? 聞きたいに決まってるだろ!」
「たから、なぜ?」
「お前のことだっ!」
「僕のことだから? だから、なぜ?」
「なぜって……」
 和泉は、なぜ聞き返してくるのか、と歌仙を見つめた。是か否では答えられない質問だが、なぜ自分が質問を返されているのかが和泉にはわからない。
「君は、僕がしていることすべて聞きたいのかい?」
「当たり前だろっ!」
「だから、なぜ?」
「なぜって…………っえっ?」
 和泉の怒りは混乱に変わろうとしていた。
「君は、僕と審神者の会話を聞き出そうとしたことはないだろう? 本丸で僕が何か書き物をしていても、その先を聞いて来たことは無いね? 僕が君を着飾らせた時も、なぜ僕がそうするのかを聞いてきたことは無いだろう? 君が、僕のことで知ろうとしないことはいくらでもある。なぜ、これは聞きたいのかかが、僕にはわからない」
 たしかに和泉は、歌仙と審神者が何を喋っているのかに興味は無い。歌仙が書き物をしている時は、誰かに手紙を出すのだろうと、その宛て先や内容を聞いたことは無かった。自分を着飾らせることに関しては、歌仙が非常に楽しそうだったので、娯楽の一つなのだろうと聞かなかったのだ。
 だがそれは『歌仙のことを知りたくなかった』わけではない。
 俺が質問してた筈なのに、なんで俺が質問されて、その答えで混乱しなきゃいけないんだ?
 和泉の頭のどこかで誰かがそう怒鳴ったが、そんな理屈めいたことを和泉が思い付いたわけではない。ただ、もんもんとしたものを投げつけられて目の前が真っ暗になったように感じているだけだ。
 歌仙が喋りたくないことなのだろうことはわかる。そういう時、歌仙はいつも、逆に質問攻めしてくるのだ。和泉が歌仙への質問をあきらめても、歌仙は止まらない。一度疑問に思ったことは、自分が納得するまで頭に残って、そのあと何もできないのだと和泉は聞いたことがある。だから、極力歌仙の質問には答えようとしているが、そこには知能の限界があった。
 歌仙は頭脳で生きているが、和泉は瞬発力で生き抜いてきたのだ。反射神経で生きている和泉にとって、理屈を問われることほど苦しいことはない。
「お前がそういうことをしてるって噂になってるからだろうがっ!」
「そういうこととは?」
「お前がっ、遠征先でそういうことをして、軍を維持する金を稼いでるって話だよ!」
 次郎が入ってきたときに、陸奥とそういうことで言い争いになっていたのを和泉は聞いてしまったのだ。その時は、それがなんのことかわからなかった。だから、そのあとしつこく陸奥に問いただし続け、根負けした陸奥が教えてくれたのだ。
『あくまで噂じゃきぃ』
 何度もそう前置きして大きなため息をつく陸奥。
『歌仙様指名で、遠征の要請が入るのは前からじゃき。それが最近ふえとるぜよ? どうも、大名の間でそういう噂が広まっとるらしくて、次郎がここに来たあとで、次郎に直接そういう話を持ちかけた奴がおったんじゃと。『いつもは歌仙殿に頼むが、たまにはお前も来い』言われてヒス起こしてたんぜよ』
 さんざん陸奥に憤懣をぶつけた後で次郎は言ったのだ。
『歌仙様も雅びがなんだとおっしゃりながら、巧いことやってんじゃなぁい。さぞ歌仙様の花は高いんだろうねっ!』
 通りがかった和泉には次郎のその声だけが聞こえた。その前後の会話は聞こえなかったし、そのまま通りすぎる筈だったのに、陸奥が次郎の頬を張り倒したので駆け寄ったのだ。女の子に手をあげるんじゃねぇっ! と言い掛けて、こいつ男だった、と思いなおし、でも、本丸での暴力ざたは見過ごせない、と間に入った。先に来ていた陸奥の方がかなり強い。案の定、次郎は垣根の向こうまで吹っ飛んで呻いていた。
 いつもなら慌てて助け起こしそうな陸奥が、その次郎を何度も指さして怒鳴る。
『おまんはどうかしらんがよ、俺は、歌仙殿の男気に惚れてここにおるんじゃきっ! あんお人を侮辱するんは許さんぜよっ!』
 助け起こした和泉の腕の中で、血を吐き捨てながら次郎も怒鳴った。
『侮辱なんてしてないわよ! ホントのことじゃないのっ!』
『軽口にしていい真実とそうじゃないもんがあろうがっ! そんなこともわからんのなら、その真っ赤なくちびる縫うちゃるきにっ!』
 いつも朗らかな陸奥があんなに怒ったのを和泉が見たのはあの時きりだ。彼は、和泉とは違う意味でムードメーカーなのだから。騒ぐときも波長が合うので、和泉の親友と言ってもいい。
『まぁ、陸奥、落ち着け。俺が喧嘩止めるっておかしいだろ』
 和泉が仲裁すると、二人の視線が和泉に落ち、二人ともが跳び上がった。
『えぇっ! イの字! いつからそこおったんぜよっ!』
『ホントだっ! なにあんたっ! 忍び足なんていつ覚えたのよっ!』
『いや、俺、ここまでドスドス来たし! お前助け起こしたのも俺っ!』
『あ……ありがとさん…………』
『とにかくっ! 次郎っ! それ他で言うんじゃないぜよっ!』
『わかったわよーっだっ!』
 舌を出して走って行った次郎を見送って回廊に上がった和泉に、元からそこにいた陸奥は大きく息をついて肩を竦めて見せた。
『なに? 遠征の話か?』
『……ぁあっ? ……………………ぁあ………………聞いてなかったんかおんし』
『遠征で歌仙が花を売ってるってのは聞いたぜ? 庭の花とか? 金になんの?』
『あー………………まぁ、なんぼでも金はいるじゃろ? こんだけ軍隊抱えちょったら』
 陸奥は、竜馬について世界を見ていたために見聞が広い。日本では『金銭的なこと』は言わぬが花、だが、そういうところも飛び越えて真実を突いてくる。
『金は無いと困るぜよ』それが陸奥の口癖だ。
 その時に、薬研藤四郎がそそそ、と近づいてきた。
『その噂、助長するわけではないですが、この藩の財政で、僕たちのような金のかかる軍隊を維持できる税収はないと思うのです』
『藩ったって、どこかの大名の所に審神者が間借りしてんだろ? 俺たち付喪神なんだし、現世の金は関係ねぇんじゃねぇのか?』
 そもそも、『金』がどういうのものか、和泉ははっきりとは知らない。
 本丸に帰ってくれば食事も布団も手入れもできるし、服や飾り物はは女の子たちが山ほどくれる。未だ『銭』を和泉は触ったことが無い。
 審神者の求心力を餌にして集められいてる付喪神たちは、『給金』に類するものを支払われてはいなかった。
 土方は和泉をよく連れ歩いてくれたが、伴の者が会計をしていたし、帰宅すれば床の間に飾られていたし、土方は別の部屋で金勘定のことを処理していた。
『ですが、刀を維持する材料や食費などは現世のものですし、資材には莫大な資金が必要ですよ』
『莫大ってどんぐらい? というか、イジヒとか、シキンってナニ?』
 そこからかおんし……と、陸奥が眉を寄せたが、和泉のこの艶やかな姿を見れば納得せざるを得ない。
『玉鋼なんて、普通の刀には使いませんから』
『え? そうなの?』
『僕たちは歴史上で稀にみる名刀の集まりですよ。同時代に数本作られたことなど無いぐらいの。つまりは、その時期にはその一本を作るぐらいしか資材が無かったとも言えるんです。それを今、一気に集めてますから、莫大な金子がかかっていますよ。だからこそ「間借り」する必要があったんです。現世の資材が何も必要ないのなら、山の中にでも本丸を作れば良かったんですよ』
 財政状況など一切考えたことも無かった和泉は、反論するなんの材料も持ってはいなかった。
 今生では自分たちの姿が人間全員に見えている。だが、自分たちはこの時代の姿をしていないのに誰も不思議に思わない。そういうのは審神者の手練なのだと和泉は歌仙から聞いていた。
 元々が、刀である自分が肉の体を持っている、ということ自体、和泉には意味不明だ。大分なれたが、自分の体が硬くはない、とか言うより先に、自分が『ものを考えている』ということすら、意味がわからない。
 刀であった時も『見て』はいた。だが、それについて『考える』ことなど一度も無かったのだ。
『こんなでかい軍団維持するの、普通は個人じゃ無理じゃき。あれだけ遠征で金稼いでるってことは、審神者からのじゃ足らんっちゅーことぜよ? そんじょそこらのことで集まる金子じゃないのはわかるき……そこを追求する気は無いちゃ』
『食費を浮かせるために、畑仕事しなきゃいけないんですね。がんばります!』
 拳を握った薬研の頭を和泉は撫でた。
 今では歌仙も畑仕事を嫌がるが、最初のうちは、みながいやがるそれを歌仙が率先して、していたのだ。歌仙がしていたから和泉も助けた。今では膨大な畑で農作物が取り入れできる。ほとんどは芋だ。本丸の主食は焼き芋だった。
 普段は涼しい顔をしている歌仙が、緑の中で汗角髪して眉を寄せている姿は、珍しくて面白かった。和泉がそれに慣れたころ、歌仙の顔にそばかすができ始めて、絶対畑仕事が悪いのだと、和泉がさせなかったのだ。その頃には本丸も賑わっていたし、誰でも代わりは居た。今、歌仙は真っ白な顔をしている。やはり、畑仕事がそばかすを作ったのだと、和泉は睨んでいた。
『おんしはなじぇにそがいなこと調べちゅーと?』
『信長様はこういうの詳しかったから。なんか、この本丸どうなってんだろうと思ったんだよ』
『どうなってるってどう?』
『金が無いのに町で飯食えるとか、刀装って玉なのに、兵隊になるとか、意味わかんねぇだろ?』
『意味があるのか?』
『この世に意味のないもんはなかっちゅーよ』
『俺にはお前の言葉の方が意味わかんねぇよ』
『なんじぇワシだけ地元言葉なんかぁ不思議じゃー。おまんらもあちこちの地方の奴らじゃろ』
 和泉は陸奥を見つめて何度かまばたきした。
 真実を理解しているとは言えないが、そのために歌仙が苦労していることだけは和泉にもわかった気がしたのだ。そして、遠征で歌仙の後をつけて寝所を覗き、次郎の危惧が真実であることを知った。
 和泉とて女の子とそういうことをするのは日常茶飯事だ。子供の頃からもてていたし、飾り物や服すら、いくらでも貰っていた。畑仕事に金刺繍の絹なんか着て来るな! と皆に言われるが、本当に腐るほど貰っているのだ。胸の鳳凰の刺繍の形や絹の染め色が微妙に違うらしく、女の子たちは自分が上げた服を和泉が着てくれるととにかく喜ぶ。一人の女の子を大事にしたまえ、とは歌仙に言われていないので、誘われれば誰とでも寝た。だって気持ちいいのだから。肉を持って一番嬉しかったのは他人と寝た快感を味わえることだと言っても過言ではない。そのために内臓が必要だとはわかってはいる。
 いくら育っても老人になることは無いらしいが、この本丸に来たときはみな、付喪神は子供だ。その成長過程は、肉の体を持っている限り人間と類似しているらしいから性欲もあるのだ、と和泉は歌仙から聞いていた。審神者と会話ができるのは近侍だけなので、それが本当に審神者の言葉なのかどうか確認する術は和泉に無い。
『だから、君が今、したい盛りなのは当然だから。子供は生まれないそうだし、相手をかわいく思うのならば女の子と遊んでおいで』
 そんなことを随分以前に言われている。人間の年齢で言うと和泉は一九才(現代だと一七才)なのだとか。
 だから、歌仙がそこで『ナニ』をしていたのかはわかってしまった。ただ、男同士でどうしているのか、がはっきりわからないだけだ。
 だって男には穴は一つしかねーんだから……えーっ! というところで考えることを拒否してしまっている。歌仙が実は、胸がぺったんこの女かも、という疑問も生まれてしまった。遠征先で温泉に一緒に入ったことはあるから、外見が男の体をしているのは見ているのだ。
 ただ、和泉は歌仙の言葉を何度も思い返す。
『相手をかわいく思うのならば女の子と遊んでおいで』
 そう、言っていた。ならば、歌仙はあの肥え太ったり、老人だったりする彼らを、『かわいく』思っているのだろうか? と。
 それが、和泉には理解しきれない『金のために我慢している』のならば、和泉は黙っていられなかった。そして、問い詰めて、喉を突かれて、問い返されて、こんな壁の端で歌仙を前にして呻いているのだ。
「軍を維持する費用は本丸から出ているよ」
「嘘つけっ! そんな金、本丸にねぇってみんなわかってるよ!」
 早速嘘をつかれて和泉はいきり立った。今までまったく興味が無かった自分がはずかしいとさえ思う。
「みんなとは、誰のことだね?」
「話しそらすんじゃねぇっ!」
 相変わらず、自分が猛ってもひょうひょうとしている歌仙に、和泉は頭の中を爪でがりがりと引っかかれているかのような不快感を覚えた。
「君が仕掛けて来た話なのだから、質問にまず応えたまえ」
 あくまでもふわりとどこかを見ている歌仙に、和泉はどんどんと熱が上がっていく。
「短刀達がそういうことを気にするわけがない。新参がそこまで気をまわすなら、次郎と……陸奥守、だろう? 君の言う『みんな』とは、誰と誰のことだね?」
「…………次郎と陸奥と薬研だよっ!」
 ああ、薬研もか……と、歌仙がくちびるの内側で呟くのを、和泉は苦々しく睨み付けた。
「その三人が、君の言う『みんな』かね? 本丸の中の、一二分の一が、君の中の『みんな』なのかね」
 ギジッ……と、和泉の歯が軋む音を立てたのと、彼の大きな手のひらが白壁に轟音を響かせたのは、同時。だが、その衝撃さえ、歌仙の紅蓮色の髪を靡かせただけだった。
「俺の認識が甘いのは認めるさ。悪かったな。詫びてやるよ。
 次はお前の番だ、歌仙。なぜ、そんなことを、した?」
「昔は私のことを歌仙様、と呼んでいたのに……いつからそんな居丈高な口を聞くようになったのだろうね」
「お前を好きだ、って気づいたときからだ」
 瑠璃の瞳が歌仙の碧玉を睨み付ける。
 逡巡も無い初めての告白。けれど、それは一切の甘い色を持ってはいなかった。
「さっき聞いてきたな? お前のことをなぜ俺が知りたがるのかと。
 俺が、お前を好きだからだ。
 だからお前のことを知りたかった。だが、手紙の相手や審神者のことはお前のことじゃなかったから、聞きたいと思わなかった。
 俺は、お前を、好きなんだ。歌仙」
 まるで一騎討ちの名乗りを上げるかのように、睨み付けてくる、和泉。そこには歌仙に許諾を求める色がまったくない。
 その『好き』は色恋ではないのだろう、と歌仙は思った。
「お前を守れる男になる」
 先程の激情がまったく消えたことで、逆に歌仙の体はわずかに震えを走らせる。
「そう思って、この、わけのわからない今生を生きてきた」
 和泉の真の怒りは、いつも、とても、静かだ。
「お前は俺よりもっといろんなことを知ってて、とてもじゃないけど追いつけなくて、お前を守れないことにさんざん泣いてきた」
「君はよく泣く」
 また、壁が轟音を立てる。
「お前が、泣かせてんだよ」
 くちびるが触れそうな距離で睨み付けられ、歌仙は瞳を伏せた。
「お前がそうやってっ、俺の言うことから目を逸らすからっ!
 俺をっ、お前を守るための壁だと認識しないからっ!
 俺は、お前を守ることができなくてっ、お前一人傷ついてっ!
 お前だけがこの本丸で、手入れもできない傷を抱えて呻いてるのを見てなきゃいけなくなってんだろっ!」
 和泉の額が歌仙の胸に押しつけられ、歌仙の帯が濡れていく。射干玉の髪が血の色の衣から離れ、海に恋するように揺れ落ちた。絹糸のようなそれに、歌仙はするりと白い指先を絡ませる。
 愛し児の涙に心痛んで蒼天を見上げた。そしてまた、自分を見ないと泣かれるのだ。
 笑顔なら見ているよ、と、歌仙は伝えたことが無い。和泉が誰かに向けて笑っているのを歌仙はよく見ているのに、歌仙がいることに気づいて和泉が彼を見ると、歌仙は『笑顔が終わった』から自分の行動に移る。その『自分を見ていない歌仙』だけを和泉は見てきたのだった。
「暗殺したいなら狸じゃなく俺に言え!」
 同田貫正国に、歌仙が暗殺の依頼をしていたと、和泉が知ったのは最近の話だ。それで一〇〇両単位の金子が入手できるらしい。歌仙以外が行く遠征の、何倍もの金額だ。
「君は目立つ。暗殺は無理だよ」
「金がほしいなら、あの城陥として全財産ふんだっくって来い、って俺に言え!」
「そんなことを審神者が許す筈が無い」
 その時代の、人間との争いは禁じられているのだ。
「じゃあお前が金のために身をひさぐのは許されてるのかよ!」
 やっと本題に入れた、と和泉は内心喜んだ。いつでも、ここに至る前に、歌仙に言いくるめられて撤退することが多い。
 歌仙は、嘘をつくことは基本的に無いが、真実を全部言ってくれるわけではないのだ。
 烏は白くない。馬は飛べない。それらは真実だが、烏の多くは黒い、馬の多くは走るのが速い、とは言ってくれない。もともと話術があるわけでもない和泉が、歌仙から真実を聞き出すのは至難の業だ。いつのまにか話を逸らされて、別のことで納得してニコニコとその場を去ることが多い。数日して『本題答えてもらってねぇ!』と気づいてまた話を逸らされて……の繰り返しだ。一つのことを問いただすのに一年以上かかったこともあるし、元の質問を忘れてしまったことも多い。
 なんでもないことはすぐに教えてくれる。だから、話を逸らされるということは、重大事に関わることなのだ。もともとが、今の自分の質問が軽いことだとは和泉も考えてはいない。だから、最初から肝を据えていた。人払いもした。
 最初に壁に手を着いたときに、指先をこすって皮膚を裂き、壁に自分の血をつけたのだ。
 絶対に、この質問は答えを聞き出す! と、血判を捺すかのように。歌仙にはぐらかせれても、指先の痛みが元の質問を思い出させてくれた。
「どうせ刀ではないかね。肉が与えられたとは言え、何も未練は無い。有意義に使った方が理に適っているだろう?」
「ならっ、俺がお前抱きたいっつっても抱かせてくれるのかよっ!」
「君がしたいのならば、かまわないよ」
 歌仙の言葉は、言い終わる前に血をほとばしらせた。
 刀を持っては一〇人一薙ぎにする長い腕で頬を張り倒されたのだ。
 歌仙は少し咳込みながら、服につかないように血を地面に吐き捨てた。その額の傍の壁に、和泉の左手が突きたてられている。後ろは壁の隅。目の前には和泉。獅子脅しが澄んだ音を立てる中、歌仙は牢獄にいるかのようだった。
 愛おしい、監獄だ。
「俺たちは審神者に呼び出された付喪神だとお前に言われた……それを否定するものも、肯定するものも、俺にはねぇ。この世界の意味はあまりわかって、ねぇ…………他の奴らで、あの、顔を隠している審神者を神聖視してるやつがずいぶんいるけど、その意味も、俺にはわからねぇ……」
 また、額を歌仙の胸に押しつけたまま、震えだす、和泉。その肩を抱こうとして上げられ、また壁に戻った白い指を、強く目をつぶっていた彼は見られなかった。
「お前がいたから……歌仙…………」
 震える、声。
「今生に生み出された子供の俺に、お前が微笑んで頭を撫でてくれたから…………」
 壁についていた手が、歌仙の両肩を掴む。
 普段はあんなに体温が高いのに、白壁に熱を吸い取られたそれは歌仙を震わせた。
「お前だけが、俺の主なんだ…………歌仙……」
 滂沱と濡れている瑠璃玉に見つめられて、歌仙は微笑んだ。
「笑うなっ!」
 本当に、その目で見てくれたことが嬉しくて笑ってしまうのに、怒られて、歌仙は目を閉じる。
「お前は……俺には触れてくれないのに、俺の髪には触るよな?
 だから、お前が触ってくれた髪を切りたくなくてここまで延ばしちまった」
「君の髪は、好きだよ……とても雅びだ」
「俺は?」
「君の顔も好きだよ。美しい」
「俺の声は?」
「すがすがしくて良いね」
「俺のこと、好き?」
「ああ。好きだよ、和泉」
 泣いた烏がもう笑った、というように、和泉が顔をほころばせる。その大噴気が消えたことで、本丸のみなも安堵の息をついた。ようやく、空が晴れていたことに気づいてめいめいが騒ぎだす。
「ああいうの、好きなやつとすることだよな?」
「人間は、そうらしいね」
「なんでお前は誰とでもできるの?」
「誰とでも……では、ないよ」
「俺とでもできるって言っただろ?」
「君のことは好きだから」
「あの爺たちも好きなの? 俺と同じぐらい好きなの?」
 人斬り太刀の大噴気は、子供の問いかけに替わっていた。
 歌仙が初めて和泉に会ったとき、彼は五才の幼児の姿をしていたのだ。
 最近の新参は、一軍が頑張っていることから、裏で鍛練をしているのは当然だが、遊んでいる者も多い。だが、当初から一軍で歌仙の背中を守っていた彼は、人間で言う『子供時代』を過ごしてはいなかった。血しぶきで彩られ、今後もそれがやむことは無いだろう今生だ。
 だがそれは、歌仙の元に集うた刀達はみな同じ。童の姿で現れ、すくすくと成長していく。歌仙だけが最初から、大人の姿で今生に生を受けた。
 もう殆ど成長しない体で、存在している、歌仙。爪を、数年に一度切る。そんな成長。
 最初に短刀達と戦場を回っていたために子供扱いが巧くなっただけだ。短刀四人と和泉で戦場を駆け回った。
 歌仙もまた、子供であることを許されない子供であったのだと、和泉は知らない。
 和泉が会った最初から、歌仙はすでに仰ぎ見るほどに巨大な経験を詰んだ大丈夫(だいじょうぶ 強く立派な男)だったのだから。
「君と同じぐらい好きな者は、今生ではいないよ」
「前は誰が好きだったの?」
「忠興様が好きだよ。主だったからね」
「今でも?」
 歌仙は、一度まばたきをして、和泉を見つめた。
 歌仙は決して、自分の進行方向を曲げない。
 本丸などで歌仙の自室以外で声を掛けるときは、殆どは歌仙が歩いているところに声を掛ける。歌仙はよほど重要なことがない限り立ち止まってはくれないので、声を掛けた者が力づくで引き止めるか、一緒に歩くしかない。歌仙が歩いている限り、その前に立つことは難しいので横に並んで歩く。だから、前を向いている歌仙から流し目を受けることになるのだ。和泉は何度、この意図しない流し目で話すことを忘れて歌仙を見送ってしまったか。
『イの字、よだれ、よだれ』
 と、陸奥に額を小突かれて初めて正気付く程、見とれていることが多い。
 歌仙は、他人を呼び寄せることはあっても、自分が歩み寄ることは無い。横から話しかけてきた者に向かって、顔を向けてくれることはあるが、足元からそちらを向くことも、無い。
 歌仙はよく手紙を受けるし、毎日何人もの侍や富豪が会いに来る。
 みな、古美術に当たる『歌仙兼定』が観たいのだ。
『三日月殿や鶴丸殿が参画して下されば、面会の半分は私の持ち分ではなくなるね』
 以前、歌仙が冗談めかして和泉に言ったことがあった。
 三日月宗近は、以前この城に遊びに来たことはあるが、傘下ではない。
 三日月宗近をこの本丸に呼ばないのか、と和泉が聞いたら『三日月様はべらぼうに高い』と、あの歌仙が難しい顔をしていたので、和泉は笑ってしまったものだ。
 出撃先に参画の挨拶に来るか、検非違使や山賊につかまっているのを救出するかすれば、大体は『無料参画』なのだが、そうでない場合はその時代の金子が必要らしい、と和泉は理解していた。
 そうでない場合というのは、本丸で審神者の力によって呼び出されるか、その刀を探しに出撃する場合だ。出撃するのには費用がかかる。制圧のために出撃したついでに参画してきた者が一番安い。そういう者たちは付喪神としての歴史が短いから弱いことが多いが、『子供』の姿をしていないことも多い。
 だから、全員が全員、本丸に参画したときに子供の姿だったというわけではない。
 審神者が刀から付喪神を呼び出していることが知れ渡っているために、自分も顕現したい刀は和泉たち本陣を追い駆けてくるのだ。そういう付喪神たちは大人の姿をしていることが多い。
 古参の今剣と乱藤四郎、和泉と陸奥、鶯丸は審神者の手により顕現させられたので、歌仙に子供の頃から育てられていた。
 彼らに対しては、歌仙はまだほかの刀よりは甘いが、歩いている時に声を掛けても立ち止まってはくれない。
 そうして、歌仙は常に誰かと会っているか、その相手に向けて手紙を書いているか、鍛練しているか、出撃しているか。立ち止まって遊んでいるところを誰も見たことが無かった。宴会をしても最初に席を作ってすぐに居なくなるか、あとから入ってくるかで、ずっと居ることは無い。
 その実、『会見』などは金を取っているらしい、と和泉は陸奥から聞いた。手紙も、その『会見料』を取るために『会いに来てください』と送っているのだとか。
 とにかく金が足りないようだ、と和泉は陸奥や薬研から聞いていた。
 『価値ある刀』は時代が遅くなればなるほど増える。江戸時代より前ならば、藤四郎は知られていないから会いに来る者もいないが、家康の没後は、藤四郎に会見がひっきりなしだ。短刀達はいつも、珍しい菓子を土産に貰って喜んでいる。勿論、その菓子箱の下のモノは歌仙が事前に袂にいれているのだ。
 一軍出撃先の時代に本丸ごと時間移動するために、その時々で刀の価値は人間からすると変わる。
 歌仙が助かるなら俺だっていくらでも、誰かに会うぐらいしてやるのにっ! と和泉は思うが、和泉が価値を持つのは幕末以降だけ。
『ワシもおんしも、短刀より稼ぎが悪い無駄飯食いちゃねー』
 と、陸奥に肩を叩かれて和泉はクワーッと憤懣を叫び、歌仙に怒られるのだった。
 そうして、常に忙しい歌仙。
 自室と審神者の部屋と客室と、食堂となる大広間と、玄関と道場と出陣と厠と風呂。それしか移動しない筈なのに、会えないときはどこを探しても会えないのだ。だから、和泉はいつも歌仙を探し回っている。
 歌仙の部屋は東の池がある角部屋だ。書き物をする時は、目の前の障子を引き、そこに机を出して座している。右の障子は大体全部開いているために、みなそこから出入りして歌仙と話をしていた。だから、机に向かっての正座を崩さない歌仙は、話を開いてはくれても、顔を見てくれることは少ない。
 和泉は何度か、その目の前の障子を開けて歌仙の前に座って話しかけたことがあるが、その時は一度も、歌仙は顔を上げてくれることさえ無かった。横から声を掛ければ、たまに振り返ってはくれるのに。
 外見はなよやかに見えるし、荒事は一切しないけれど、強情で辛辣で唯我独尊のその性。
 この、城の白い外壁に歌仙を追い込んだ今。滅多に真正面から見てくれることの無いその瞳に、和泉は高くなる鼓動を押さえられなかった。
 真正面から見る歌仙が一番美しいのは間違いないのだ。
 極彩色の庭や着物を背景にすると埋没してしまうその淡い藤色の髪も、白い壁の上に鮮やかに咲き誇り、いつもは色の無いその頬も、和泉の赤い衣が映り込んで、淡い少女のようだ。
 歌仙の真正面に立つのは和泉だけだった。
 和泉だけが、歌仙の足を留めさせる。
『イの字ぃ、なんでおんし、そがいに歌仙殿の足をとめよぉ? お忙しい人なんじゃきぃ、邪魔しないな』
 口をへの時に曲げた陸奥に問いただされて、和泉はふてくされたことがある。
『真正面から見る歌仙が一番綺麗だからだ』
『おんしの眼福のために歌仙殿は生きとんちゃうぞワレッ!』
 陸奥も、歌仙のこととなると和泉程ではないにしても肩入れしてくる。陸奥からすれば、どう考えても、和泉が歌仙の時間を浪費させているように見えて仕方ないのだ。
『それに…………俺が真正面に立ったら、俺の赤い着物の色が歌仙の顔赤くしてくれて………………スゴイ、綺麗、なんだよ……』
 一発その綺麗な顔を殴っちゃろか、と拳を握った陸奥は、ゴン、と和泉の胸を正拳突きして突き放しただけにとどまった。
 そがい、着物の色なんぞ顔に映り込むもんじゃなか? という言葉を陸奥は呑み込んだのだ。大体、和泉の着物の赤は渋い色だ。それがどう映り込んだら、頬を染めた色になるというのか。
 歌仙も和泉が好きで、和泉の好きにさせているのだ、とこの時は陸奥は気づいて、それ以来二人のことには口出しはしていない。和泉に前に立たれることで、歌仙は興奮して頬を染めているのだ。それは綺麗だろう。
 和泉の歌仙への愛情は、兄を慕う域を出ていない。それが衆道の色恋だと気づかせたくはない、と陸奥は思ったのだ。
 今でも歌仙がかなり無理をしているのは陸奥にもわかる。これ以上和泉に、歌仙の時間を邪魔させたくなかった。
 陸奥の予想通り、和泉は、男の歌仙を前に、その興奮をどうしていいのかはわからない。
 こうして壁の隅に歌仙を追い詰めても、だからそこでくちびるを奪ってしまおうとか、抱き締めたいとか、そっちには頭が向かなかった。
 ただ、真正面に立ちたい。
 ただ、逃がしたくない。
 それだけなのだ。
「審神者は好きじゃないの?」
「……君ほどでは、ないね」
「じゃあ、俺と一緒? 審神者が一番じゃないの?」
「……そうだね。審神者は、一番好きな存在では、無いね」
「ならどうして?」
 子供の疑問はきりがない。だが、今は誰に急かされているわけでも無く、それに付き合う辛抱強さも、歌仙は持ち合わせていた。
 他の者ならば切り上げたかもしれないが、和泉のことだから。和泉の、言うことだから、歌仙も聞きたいのだ。そのすべてを。
「どうして、近侍をやめないの?」
 子供の質問は、残酷だ。
「近侍を辞めてどうするのだね? 他の近侍の下につけと?」
「この世界じゃもう、歴史を変えられねぇ。今から作ることはできねぇ。つまりは、天下統一に名乗りを上げることもできねぇ。
 なら、なんでお前はこの軍隊を維持してるんだ? 審神者が好きじゃないのなら、審神者に任せて出奔すればいい」
「『今の審神者』は軍事に明るくない。僕がいなければ、編成を決めることもできないよ」
「審神者が好きじゃないなら、審神者の心配しなくていいだろ? お前、万人に優しいわけじゃねぇのに、そんな言い訳通ると思ってんのか?」
 和泉の時代でも『民主主義』などというものは無かった。上意下達が絶対のこの時代に、最高権力者である審神者の命令を聞かない、という信条は、殆どの刀に無いだろう。賢人でも俊敏でも愚鈍でも、主は主なのだ。その袂を分かつことは、人でなし、ならず者、理の通らぬ者として人の道から外され、後ろ指をさされる。
「審神者から離れれば、僕たちは存在できなくなるらしいよ?」
「誰も確認してねぇんだろ? はったりかもしれねぇ」
 歌仙は目を見開いた。
 これが、歌仙にして和泉を下に置けない理由の一つなのだ。
 とんでもないところから答えを引っ張ってくる。
 歌仙は自分のことを秀才だとは理解している。勉強をして、鍛練をしてここまで来た。だが和泉は、何も知らないのに、突然、歌仙の見ず知らずのところから答えを引っ張ってくる、歌仙が鍛練しているのに、歌仙より強くなりつつある、いわゆる『天才』だった。『知識』が無いし、勢いが強いので智将とは誰も見ないだけだ。その上で、この軍では歌仙の次に強い。だから、自分に何かあったときのために、と歌仙は和泉に近侍の仕事を少しずつ教えてはいた。だが、和泉は審神者と会いたがらないので、会う場所を知っている、というだけだ。
 人の目を見て喋りたがる和泉は、顔を隠している審神者がとにかく気に食わないらしい。
 すぐに俯いてしまう五虎退や山姥切国広の顔をひっつかんでその目を覗き込み、何度泣かせたことか。大倶利伽羅や同田貫正国も、同じように顔を引き寄せて目を覗き込んでいた。『和泉の洗礼を受けてる』と皆笑っている。
 同田貫にいたっては、顔を引き寄せた和泉の髪を引っ掴んで、その口を思いっきり吸ったのだ。咄嗟に突き飛ばして逃げた和泉に向かって唾棄し『なんだ、色ぼけじゃねぇのか。応えてきたら舌噛み切ってやったのに。ちょっと背が高いと思って大上段から舐めてんじゃねぇぞ。じゃらじゃらした美術品野郎』と睨み返し、辺りを凍らせた。
 和泉がうがいしたくて水を探していたとき、彼は短刀達が釣ってきた川魚の桶を自分にひっくり返して水を被り、生魚を一匹そこで頭から食ってしまった。
『何しちょるがおんしっ! 腹減ってるなら御厨いけば何かあるがにっ!』
『そいつのなんかにおいついたくせぇ。それに、うがいするよりこの方が早いし腹にたまる』
『俺の口が生魚以下だってのかよっ!』
『焼き魚ぐらいの自信があるのか? すげぇな』
『魚から離れろっ! 大体このにおいは歌仙からもらった梅の香だぞっ!』
『梅干しの方が腹にたまるな』
 ハッ、と鼻先で笑われて、和泉の額で血管がブチブチブチッと弾け飛んだ音をみな聞いた。
 咄嗟に陸奥が和泉の太刀を取り上げて竹刀を渡したので、同田貫も投げられた竹刀を受けとり、そこで手合わせが始まりかけた。
 だが、出陣先で参画してきた同田貫は、大人の姿をしてはいるが、和泉とは付喪神としての歴史が二十年ほど違う。勝敗ははっきりしていたが、逃げる素振りが無かった。
 引いたのは和泉の方だ。
『初参画の弱っちいを叩き伏せたって溜飲は納まらねぇよ。くそっ!』
 竹刀を近くの岩に叩きつけて折った和泉にまだ嘲笑がかかる。
『俺に勝っても武勲にゃならねぇし? ……万が一負けたら恥ずかしいしな』
『おんしも言い過ぎぜよ』
 いい加減仲裁に入った陸奥の隣で、和泉は突然座り込んで砂山を作り、近くの梅の木から枝をむしり取って突き刺した。
『山崩しで勝負だ!』
 砂だらけの手で和泉が下から言い放つ。
 今、帰参したところで和泉も賑々しい戦正装なのに、その金刺繡の服で子供の遊びを仕掛けている。しかも、お前、それ、下手なのにっ! と、和泉の不器用さを知っている者は笑いをかみ殺した。
 なぜか同田貫も付き合ってくれて、みながワイワイ囲んだが、勿論、和泉の大敗北だ。
『うがーっ! 負けたーっ!』
 髪を胸に抱いて地面を転がる和泉に、だから、金刺繡の服がドロドロじゃき……と、陸奥は蹴り転がして笑う。
『馬鹿な奴が多そうで気が抜けたぜ』
 同田貫はご機嫌で本丸に入って行った。この先、彼は無愛想で殆ど喋らないが、唯一、笑顔を見せたのがこの時だ。
『イの字。新人の心をほぐすの巧いな、おんし。どこで覚えたんじゃ? 歌仙殿の手ほどきがか? ん?』
『何が新人の心ほぐすがどうだっ! 真剣にやったわ俺はっ! 絶対山崩しは自信あったのにっ! 信じられねぇっ!』
『和泉、一度も山崩しとか、ひょこまわし(まわり将棋)とかで勝ったことないのに? 一度も無いよね? 無いよ? なんの自信なのそれ』
 あんぐりとあきれていた陸奥の代わりに乱が口を出した。
『嘘だろッ! 俺いつも勝ってるだろっ!』
『いつー? もしかして虎ちゃんの虎相手にやってた? でも、それは自慢になんないわよ?』
『猫相手に遊ぶかーっ!』
 そのあとしばらく、和泉に山崩しで負けたやつは誰? と短刀の間で大捜索され、愛染国俊が四割の確率で負けていることが発覚した。
 ついでに、このとき和泉が折った梅の木は、歌仙が好きだったもので、玄関先で正座二時間を言い渡され、しょげていた上に苦しんでいた。この間に城を訪ねて来たものは、いきなり和泉に出迎えられ、ひっくり返って驚き、恐縮していた。相変わらず、外面はいいやつじゃの、と陸奥が失笑する。
『あの狸は、身を切らせて骨を絶つ奴じゃの。自分に衆道の気が無いのに、男の口を吸うとか、ワシには信じられんきに。あーコワコワ!』
『ありゃ、相当狙われたんだろうねぇ……ああいう男気強い奴を押し倒したい変態多いもんねー……いー体してるしさー。
 結構、和泉みたいな女顔って敬遠されるんだよね。男が好きで男を抱きたいわけだから、男っぽい奴が好きなんだよ。その点タヌキいいわー。好きっ!』
 震えた陸奥の隣で次郎が頷く。
『実はアタシもちょっと好みなんだけどー、口説いていいと思うー?』
『同じ傷つけられんようにな。一応、おまん、顔は綺麗じゃき、もったいないぜよ』
『えっ? アタシを美人だと思ってくれてたの、あんたっ!』
『歌仙殿とイの字と、蜂須賀と、骨喰と、乱と、加州と、薬研と江雪と、宗三の次ぐらいにはなー』
 くそっ、そいつらより上だっていうと面倒くさい奴がいるな……と、次郎が舌打ちする。
『ちゅか、先にあいつが宣言しよったじゃなかが? 口吸うて来たら舌噛み切るぜよ、て。あれ、衆道お断りのどでかい挨拶じゃろ』
 和泉が仕掛けたから和泉がされたが、和泉が粉を掛けなくても誰かに先制攻撃でした可能性が高い、と陸奥は思うのだ。その相手は、よく新人を相手にする自分だったかも、と思うからこその寒けだった。
『そだね。うん、絶対手ぇ出さないどく』
 やだやだ、と次郎は去った。
 後に陸奥は同田貫と差し向かいであの時の口吻を問い詰めたことがある。
『あれ、和泉がその気があって応えてきよったら、おんしが噛みついたとしても、仕掛けたのおんしじゃから、和泉の舌をおんしか噛み切ったら、ワシら全員でおんし叩き切ったが。その危険性は考えちょらんかったんき?』
『あ? すげぇ女好きだろアイツ』
 和泉が歌仙殿を好きなんは衆道じゃないがか? と、陸奥は首を捻った。実際、和泉が毎日のように女の子と遊んでいるのも事実なので、同田貫は、ことの正中は見ていると言える。
『俺だって相手見て喧嘩売ってるさ。あんたにはゼッッタイに仕掛けねぇ、安心しとけ。俺だって応えられちゃ困る。他人の血程不味いもんはねぇからな』
『ワシにもそっちの趣味はないぜよっ!』
 そうかいそうかい、と同田貫はもう背を向けてしまった。
『誰かの舌、噛み切ったことがあるがか?』
 ハッ、と肩で笑って歩いていく同田貫。
 彼はこの後も、人が集まるところには絶対に寄って来なかった。食事も、勝手に御厨から何かを持ち出したり、獣や魚を狩ってしのいでいるようだ。陸奥も、彼と喋ったのはこれが最後。出撃となるとすさっと列に並んでいる不思議な男だった。人が嫌いなのかと、山姥切が同田貫のことを聞きに来たことがあるのも陸奥は謎だ。
『彼はあんなに有名だし本身なのに……』と、山姥切は感嘆していた。
 山姥切は山姥切で、和泉に単身城の外へ連れ出され、あの薄汚れた布を奪われ、金襴緞子の打ち掛けを渡されて放置されたことがある。
 花魁みたいにキンキラひっかけて帰ってきやがるぜー、美人が際立つよな! と玄関で待っていた和泉他いたずら好き数名は、その打ち掛けを大事に腹にしまって泣きながら走り込んできた山姥切を、大笑いして追い駆けていた。
『こんな綺麗な布っ、かぶれるわけないでしょっ! もったいないっ!』
 それを聞いた和泉が、無地の布撤去令を出して、本丸の中を綺羅で埋めつくした。そのあと、山姥切は、和泉の前だけではあの布をパッと脱いで腰に巻き、和泉を真っ直ぐに見て挨拶をしている。自分をちゃんと見るようになった彼に和泉も満足げだった。和泉にはできて僕にはできないのかい? ワシは無視がか? と、上位の者たちに次々言われて、最近ではあまり布をかぶってはいないし、誰にでも、目を見て挨拶をしてくるようになった。
 歌仙も、あの山姥切の被り布が鬱陶しかったので、是正させた和泉に感嘆した。見た目が悪いとかより先に、視界が狭くて人やモノによくぶつかるし、部屋から出ては来ないし、雅びではないし、布が歩いていると驚くし、部屋に入る前にはたくこともしないから、外の埃を持ち込んで畳がじゃりじゃりしているし、彼が御厨に入ったときに竈の火が燃え移り掛けたこともあった。
 砂でじゃりじゃりというのは、同田貫もそうだ。『あいつは砂浴びでもしてんのかっ!』と砂の上がった玄関を見て和泉が探し回ったが、絶対に捕まらない。ただ、歌仙が一度注意すると、今度は本丸の板の間にすら上がってこなくなった。庭から煙が上がっているので火事かと思えば、同田貫が鳥を焼いていたといわれて歌仙が注意したら、本丸にすら入って来なくなった。町の女の子の家に寝起きしているらしい。鍛練のために道場に入り浸っているので伝達に困ることはないし、歌仙以外に返事はしない。だが、約束したことを違えることもないのでその他に糺すべき所が見つからない。他と交われ、ミンナ仲良く、というのは民主主義が流行ったから言われだしたものであって、この時代、特殊技能を持つ者が一人で何かをしていても、それほど変わったことではないのだ。特に侍など、武器を持つ者が一人でいることを不思議がるものはそういない。戦場では二人とも武勲も高いし、命令は聞く。止まれと言えば止まるから、突っ走ってしまう和泉よりよほど隊長には使いやすい。
 だが、本当に困った二人だ、と歌仙も陸奥も嘆息する。
 そんな一人を和泉が改善させたのだから、歌仙は素直に嬉しかった。
 『写しだから』という、山姥切の自己嫌悪を一切和泉は触らずにそれをしきったのだ。ただ『布かぶって俺の目を見ないのが鬱陶しい』という、傲慢で感情的な自己顕示欲だが、みな思っていたので誰もが和泉に拍手喝采した。
 歌仙や陸奥が何度か『その布をどうにかしなさい』と話をしても『写しだから』『見られたくない』とまったく聞く耳を持たなかった彼に、一瞬でも自発的に布を下げさせた和泉に感心する。
 いたずら好きの短刀達も、和泉が何をするか興味津々なので、和泉が『無地の布、本丸からなくせーっ!』と言えば、短刀達がパパッとしてしまうのだ。手足を持った和泉に負けはない。その時から、山姥切の布団は真紅のままだ。
 万事が万事、和泉はそうなのだった。
 あまりに無理矢理すぎて歌仙は呆然とすることもあるが、結果的に、悪い方に転がったのを見たことは無い。
『壬生浪の癖に……イの字は、龍馬がごと破天荒じゃ』
 陸奥も感心仕切りだ。彼の『龍馬みたいな』は、最高級のほめ言葉だった。
 わけのわからないところから味方を作っていく和泉。
 努力して乗り越えようとしている歌仙の後ろから、するっと飛び越えて言ってしまう和泉。
 あの機転があれば、僕は『こんなもの』にならなかったのに……と歌仙はよく思った。
 この城の近侍は歌仙なのに、和泉が人払いすると本当に誰も来ない。ここで僕が和泉に殺されたらどうする気なんだ、と歌仙はありもしないことを考えて苦笑しかけたが、瑠璃の目に見つめられて、瞬きしただけに終わった。
 漆喰の壁と和泉に挟まれた、愛おしい監獄の中で歌仙は囁かれる。
「消えるなら消えればいい。好きで復活したんじゃねぇよ」
 たしかに、と歌仙も思った。
 『審神者が絶対』だから、誰もそういうことは考えないものなのに、この子はまた、どこからそれを思い付いたのか、と歌仙は彼を見上げる。
 普通なら和泉の立ち位置では太陽が背中にあるから顔が暗くなってしまうのに、白壁に照らされて、鮮やかに冴え渡っていた。
 ああ……今日も綺麗な私の和泉……
 歌仙の自慢は今日も星の如く輝いている。
「歴史変えられるのを止めるとか、誰か、刀の中でしたい奴がいるのか? 無理矢理起こされて、無理矢理仕事押しつけられて、怪我してんの俺たちじゃねぇかよ。なんで俺たちが審神者にそんな義理がある?」
 いつも、和泉は、歌仙のほしい言葉を、くれる。
「お前が、誰も殺さなくていいところに、行こう」
 ふわり、とくちびるに触れられ、歌仙は和泉を仰ぎ見た。
 前にされたのは遠征先だ。
 歌仙は、泣いていた。
 今、泣いていた。
 また、泣いていた。
「消えるまで、手を繋いで歩こう」
 触れた額で和泉にささやかれる。
 歌仙の脳裏に、幼い頃の和泉の姿があった。一度も自分は手を引いたことなど無いのに、その小さな手を握って歩いている、自分。
 その子はもう、見上げるほど大きくなった。
 好きだの愛しているのではなく、ただ、手を繋いで歩こう、と。
「君は……本当に、綺麗だね………………和泉……」
 先程、金のために身を売っていた自分を責めたのに、それを汚いのなんのとは、考えていないのだ。
 ただ、『なぜか』と。
 彼は以前からそうだった。
 歌仙がどれだけ彼の目の前で不慮の血を流して見せても、歌仙の思うように処理してくれた。
 和泉に嫌われるかも……
 その心が、常に歌仙の中にはあったのだ。彼の純粋さに、自分の中の醜さを重ねて、あきれられるのではないかと、怯えて、いた。
 そのことこそが、和泉を見くびっているのだ、と歌仙は気づく。
 何があっても和泉は自分を愛してくれている。
 それを前提に生きてみよう。
 歌仙は、思った。
「手を、つないで…………どこまでも、行こう………………君と…………」
 微笑んでくれる愛し児の頭をそっとささえて、その額にくちびるで触れる。
「愛しているよ、和泉。この世の、誰よりも、何よりも……」
 深くくちびるを合わせて、大きな幼子を抱き締めた。
「私の夢が叶ったら、二人で、本丸を、出よう……」
 何度も口接け合う。手を握り締めて。指をからめあって。このまま、壁をすり抜けて行ってしまおうとでもいうように。
 こんなに、歌仙と触れあえることが初めてで、和泉は常軌を逸してしまっていた。背骨を折らんばかりに抱き締めて、顔中に口接けて、くちびるを吸って、もっと奥へとのめり込む。
 子供の頃に頭を撫でてくれた歌仙。
 二度目の、歌仙からの接触が、これなのだ。
 息が切れて二人で噎せて、互いの涙を袂で拭って、額をおしつけてくすくす笑って、そのくちびるを互いについばんだ。
 なんて楽しい、愛おしい、時間。
 二人の間に永遠が溢れたかのよう。
「初めて……お前に俺の言葉が通った気がする……」
 一つになってしまえばいいのに、と和泉が歌仙を抱き締める。歌仙も同じ強さで抱き締め返す。その熱が背中に心地よくて、和泉は笑いがとまらなくなった。
 『歌仙の熱』など、初めて感じたのだ。
 歌仙は氷のように冷たいのではないか、と、思っていたことに気づく。同じ付喪神という存在なのだから、自分が熱ければ歌仙も熱いのに、別の存在だと感じていた。
 あまりに、歌仙が、綺麗だから。
「人間の体になって、良かったぁ……」
 首筋まで舐めながらささやかれて、歌仙が肩を竦めて笑う。
「刀のときは熱くなりようがなかったもんな」
 抱き締める腕も無いしっ! と、もっと強く歌仙を抱き締めて抱き上げて、ワーッ、とその辺りを駆け回る。
 池のほとりの大石に歌仙を座らせて、開いた隙間に自分も尻をねじ込む。吹っ飛ばされそうになった歌仙の腰を抱き寄せて、横からギュッと抱き締めた。腕が寂しくて、歌仙を膝に抱き上げる。右に左に振り回された歌仙は、髪も乱れ、息さえも荒くなっていた。その髪を手櫛で梳かれ、耳を噛まれる。
「君はもう…………私は旋風に舞い上げられた散桜の気分だよ」
「もう振り回さないーっ! 落ち着いたぜ俺!」
 にぎにぎと、歌仙の体をあたためながらその赤いくちびるにささやく。
「お前の夢……って、聞いていい?」
 ここで、部屋に戻って組み敷きたい、などと言わない和泉に、歌仙は本当に和んだ。
 嫌いな者にしか抱かれなかった。
 愛する和泉にそれをされるのが、怖かったのだ。
 何も、感じなかったらどうしよう。
 それでも、愛し続けることができるだろうか?
 そんなことが、馬鹿馬鹿しい杞憂だったと実感する。
 和泉は決して『抱きたいから』好きだと言っているわけではないのだった。
 歌仙が歌仙だから、好きなのだ。
「そうだね、君にだけ、教えて上げよう。私が、審神者を殺さないでいる理由を」
 思うさま、歌仙の頬や耳たぶやくちびるを堪能していた和泉が体を硬くした。
 いつでも、歌仙は和泉より巨(おお)きい。
 いつでも、とんでもないことを言われて東奔西走するのが和泉なのだ。
 いつでも……
 普段でもいろいろなことを考えている歌仙のその『夢』は、やはり、和泉の慮外だった。
「忠興様を、滅す、こと」
 だよ、……と、耳を噛まれて囁かれる。
 くすぐったくて、うひゃひゃっと騒ぎたいのに、滑り込んでくる声がざらざらと和泉の脳を不愉快に揺らした。
 やはり、とんでもないことを、望んでいた、歌仙。
「忠興様が僕をお使いになる前に弑し奉ることができれば、僕は、血を知らない刀で、いられただろう」
 和泉は、抱き締めていた体を少し離して、その白い顔を覗きこむ。いつもならふんわりと視線を逸らされたのに、その碧玉は真っ直ぐに和泉を見つめていた。
「僕は…………ただの美術品で、居たかった……」
 この軍団一の猛将の、これが、願い。 
「刃として生まれたからにはナニカを切らないと本願を果たせない、とは、僕は、思わない」
 長い指で髪を味わわれ、和泉は意識が散逸していく。
「そこに飾られているだけで褒めそやされるもので、ありたかった……」
 大名達の所持刀にはそういうものもたくさんあるのに、なぜ僕はそうなれなかったんだろう……と、嘆く、和泉の『世界』。
「『歌仙』などという名前…………いらなかった……」
 なんて綺麗な名前だろう、と初めて会ったときに和泉は思ったのに。それすらも嫌悪の対象だったなどと。ではなんと呼べば良いのだろうか?
「俺が歌仙って呼ぶのも、イヤ?」
「君が呼んでくれるから、まだ耐えられたのだよ」
 キュッ、と。後頭部を撫でられて和泉はふにゃっとその胸に溶けた。
「優しく発せられる君の音声は、雅びだ」
 うっとりと、顔を撫でながら囁いてくれる和泉の想い人。
「君が居たから、この十年あまり、耐えられた……有り難いことだよ、本当に、君の存在に、助けられた」
 意志の無い刀だから、どんな名付けをされようと拒否できないし、嫌悪も無かったのに。付喪神として下ろされて、歌仙の最初の嘆きはその名だったのだ。笑い話にできるぐらいには慣れたけれど、歓迎できない、名前だった。
『カセンチャマ?』
 幼い和泉が舌足らずに呼んでくれた。あの『音』のかわいらしかったこと、美しかったこと。
 『兼定』と呼ばれると思ったのに、和泉も兼定だから。同族だから。
 その幼いくちびるから発されたその音は、なんと雅びなことか。
 私の名前は、綺麗な音韻だな、と、歌仙は初めて思えたのだ。
「それにしちゃ……俺の扱い酷くない?」
 くちびるを尖らせる和泉に、歌仙はクスクスと笑う。
「だから、優しく発せられる君の音声、と説明しているよね。君の大声は天守閣にまで聞こえる。傍で発されると、頭が割れそうだよ」
 俺、いつも、歌仙歌仙っ! って喚いてたよな、と和泉も自戒した。
「どんどん、移動できる時代が増えている。そのうち、あの時代にも飛べるだろう。そのために、私は近侍として、本丸を、守っているのだよ。
 過去に行く能力を審神者から入手できるなら、審神者など、今すぐ居なくなって、いい」
 さらっと前の話しに戻してくる歌仙。彼の話の展開に、和泉はいつも振り回される。けれど、今回は、全部の質問に的確に答えてもらえたのだ。和泉はとても満足だった。
「でも、それしたら、審神者に逆らうことになるだろ?」
「だから、言っただろう?
 私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう、と」
「あ、そっか!」
 歌仙にクスクス笑われて、和泉もクスクス笑い返し、重大な事実に気づけなかった。

[newpage]

「和泉守って、静かだと本当にいい男だよねぇ」
 その日から一転して、騒がなくなった和泉に、本丸での人気は急上昇だった。
 今までも歌仙しか和泉を押さえ込むことはできなかったが、名実共に歌仙が和泉の鞘となってくれたのだ。
 むき身の刀が主を探して世を騒がすことは一切なくなった。審神者の前だろうと、戦場以外では歌仙にべったりくっついている長髪が諸所鬱陶しいぐらいだ。


 歌仙の夢が、叶おうとしていた。

[newpage]


「時間遡行軍が細川忠興殿を狙っているらしい」
 審神者の発表に、和泉はくちびるを噛みしめた。
 歌仙の夢がもうすぐ叶う!
 二人で本丸を出て行ける!
 和泉には、それしか、なかった。
 歌仙が殺したくないのならば自分も殺したくなど無いのだ。
 和泉には、土方に最後の最後で使われなかった残念な想いがある。
 刀の時代が終わった。
 その転換期に自分は生きていたのだから。
 主に添い遂げたい。
 その心が、くすぶっていたのだ。
 歌仙の夢が、和泉の夢だった。
 その夢が、叶うまでは。
 

[newpage]

 歌仙を第一軍隊長として、和泉たちは出撃した。
 だが、どこにも時間遡行軍は出なかったのだ。
 誤報かとみなが不思議顔をしている中、歌仙はゆっくりと辺りを見回していた。その視線に和泉も気づく。
 『時間遡行軍』は今、歌仙なのだ。
 審神者がそのことを知ってこの時代に来たことはあり得ない。それは歌仙の想いを遂げさせることになるのだから。
 歌仙の想いが岩をも通したのだろう、と和泉は感じた。
「私は、嘘つきだからね」
 そう言って、歌仙が笑ったから。どうにか歌仙が審神者を騙したのだろうと和泉は思ったのだ。
 だからこそ、野営の陣から歌仙が抜け出したのを、追えた。
 まだ五才の忠興を屠ることは簡単なことだ。
 その時点で歴史は変わった。
 財政に窮した細川家は二代兼定を、戦とは縁の無い大名に売り渡し、そこでその兼定は奥座敷の床の間に鎮座し、後に朝廷に献上され、誰にも『使われることの無い』まま、『現代』では美術館に安置される刀となったのだ。
「やったな歌仙っ!」
 和泉が、夢叶った想い人の肩を抱こうとしたその瞬間、指は空を切った。
 今、ここに歌仙がいたのに?
 その手を見つめて、和泉は眉を寄せる。まわりに、付喪神は、いない。
 歌仙がいなくなった。
 そこに、二代目兼定はあるのに?
 その時、和泉は気づいた。
 この『兼定』は二代目兼定ではあるが、この時点では『歌仙』ではない。そして、忠興の手から離れるから、その後も『歌仙』の名前はつかないのだ。
「え? 『俺の歌仙』は……どこ行った?」
 混乱しながらも、和泉は野営地に戻り、朝方、歌仙がいないと慌てる自軍をまとめて帰還する。
「とにかく、任務も失敗してるし、審神者に話を聞かないことにはわけがわからないだろうっ! 黙ってついて来いっ! 一番焦ってるのは俺だっ!」
 副隊長でもあり、失踪者の恋人である和泉にそういわれては他の者が文句を言えるわけもない。大体、もう忠興は殺されてしまっているのだ。個々人で歴史を行き来できるわけではない彼らに、他の進む道などある筈が無い。
 しかも、その帰還道中で、黒い髪の『二代目兼定』が参画してきた。
「僕は二代目兼定。歴代兼定でも随一と誉れ高いことだよね。之定と呼んでくれていいよ。ああ、同族がいるのかい? これは心強いね」
 『之定』は、和泉に笑いかけた。
 あの、歌仙と同じ顔、同じ声、同じしぐさで、『之定』を名乗ったのだ。
 黒く長い髪で。
 歌仙よりは、少し、幼い、顔で。
 和泉よりもはるかに幼い、顔で。
『私は、嘘つきだからね』
 之定を前にした和泉の頭に、歌仙の言葉が蘇る。
 あれは、ナニに対しての嘘だった?
 和泉は、審神者を騙すための嘘だと、考えた。
 違うのだ。
 違ったのだ。
『私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう』
 あの、言葉が嘘だったのだ。
 歌仙の夢が叶ったら、歌仙はいなくなってしまうのだから。
 歌仙が、気づかないわけは無いだろう。
 わかっていて、実行したのだ。
 自分が消えることを、知っていて、ついてくる和泉を連れて行ったのだ。
 和泉は知らなかった。
 気づけなかった。
 歌仙は、愛していると言った和泉に、綺麗に、嘘をついた。
『愛しているよ、和泉。この世の、誰よりも、何よりも……』
 あの言葉が、嘘だったのだ。
 自分がいなくなることで和泉がどれだけ悲しむかなど、そこには関係ない。
 最初から、しないとわかっていて、和泉とあんな約束をしたのだ。
『私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう』
 命を賭けた、和泉との、約束だったのに……
 和泉は、歌仙となら死んでもいいと思ったのに……
 二人で、共に死ねるのだと思ったのに……
 和泉の悲鳴は、城を揺るがせた。
 数年ぶりに聞いた和泉の大音声に、古参は自分の胸を押さえてうずくまった。耳を覆った。
 歌仙の部屋で延々と泣いている和泉に、誰も声をかけられない。
 歴史を守るために存在するこの本丸の者たちは、『変わる前の歴史』を忘れられないのだ。
 知らないのは今から来る刀達。
 それと、之定、だった。
 歌仙の消滅と入れ違いに参画した之定には、歌仙の記憶が、無い。
 和泉の目から血が溢れたころ、飲まず食わずだった彼は意識を失い、手当てをされて床に横たえられた。
 目に包帯をしている和泉は、起きているのか寝ているのかもわからない。床ずれができても動かない彼を、皆が心配して部屋に詰めていた。
「イの字。起きとるんじゃろ? おんしが飛び起きる事態が勃発したぜよ」
 陸奥が包帯のある和泉の頭を撫でる。
「ワシら、これから、あの歌仙殿討伐部隊になるんじゃと」
 和泉は動かない。
「わからんかぁ? 和泉の。ワシらが歴史守らにゃぁならんから、歴史を変えた歌仙殿を、歴史を変える前まで戻って消滅させることになったんきに」
「え?」
 本当に、和泉が跳ね起きた。
 まわりにいた短刀達は一瞬喜んだが、黙り込む。
「歌仙を討伐っ! ナニ?」
 馬鹿なことを、と怒鳴ろうとした和泉は、包帯で眼球をこすられて、無理矢理それを取った、かすむ視界で、陸奥が滂沱と涙を流しているのに、言葉をなくす。
「ワシらがぁ…………あの歌仙殿…………討伐………………やて…………」
 ぐしゃぐしゃと顔を歪めて和泉を見つめるそれは、鉄が赤く錆びた色をしていた。
「和泉の………………………………なんかワシぃ、わけわからんくなっちゅー………………」
 思わず、和泉は自分の悲しみより泣きはらした陸奥を抱き締めて、その背中を、頭を撫でた。
 歌仙がいなくなって悲しいのは自分だけではなかったのだ。
 彼も、歌仙に育てられたのだ。
 歌仙を知っている者はみな、歌仙が消滅して悲しいのだ。
 そのことに、和泉はようやく気づいた。
「ごめん………………俺ばっかり、一人で悲しんでて………………ごめん…………ごめんな……ごめん…………陸奥……」
 大男二人で泣いているのを、短刀達が寄ってきて撫でてくれた。その彼らも、その大きな腕で抱き締めて、和泉も陸奥も泣き崩れる。
「之定見てたら、わかるきぃ…………歌仙様がなんじぇこんなことしたのか、わかるきぃ………………責めることもできん………………あんお人、文系文系言うてたんこのことやったん………『歌仙』の名前が、あんお人には邪魔やったんぜよ……」
 的を射ている陸奥の言葉に、和泉は頷くしかできない。
 和泉は之定の挨拶を聞いただけだ。歌仙の望みを知っていたから、彼の外見ですべてわかってしまった。けれど、之定を長く見ていれば、古参の者たちにはわかったのだろう。
 ぽんぽんと頭を叩かれて、和泉は顔を上げた。
「おんし、ヒドイ顔しちょるきぃ鏡見ちゅーが」
 五虎退が手鏡を持ってきてくれたので覗き込んだ和泉は、咄嗟にその鏡を投げ捨てた。
 げっそりとやつれて幽鬼のようなのは、手の甲が骨張っていたのでわかっていたが、白目が血の色に染まっていたのだ。己こそが検非違使の幽鬼ではないかと、吐きそうだった。
「怖かろ? おんしが鬼じゃっちゅーても信じる顔しちょるきぃ、治るまで目ぇ伏せとくんぜよ?」
 和泉は頷いて、黒い紗を帯状にして持ってこさせた。審神者もずっとそうしていて、顔が見えないのだ。だからこそ、和泉は、顔も見えない審神者を尊敬する気持ちも沸かなくて、主アルジ、と言っている者たちが信じられないのだった。
 その黒い紗を包帯のように目にまくと、和泉からは外が見えるが、まわりから和泉の目は見えない。
「審神者の視界ってこんななんだな……」
「景色暗くて鬱陶しいじゃろけど、」
「どうせ、歌仙がいなきゃ、世界なんて白黒だ。かまやしねぇ。敵か味方かだけわかりゃいいんだよ」
 和泉が歌仙に初めて会ったあの幼いころ。歌仙以外は色あせていた。否、歌仙だけが、和泉の目に色づいて見えたのだ。乱が金色の髪をしているとか、自分が紅い服を着ているとか、言われればわかるが、自分ではわからなかった。それらはただ色あせて、白髪や、墨染めの衣に見えたのだ。
 まるで雪原かと見紛うような白黒の世界で、ただ一人、紅をまとう歌仙。
 誰が追い駆けずにいられただろうか。
 紫陽花のように揺れるあの髪が好きだった。若葉色のあの瞳が愛おしかった。それ以外は、和泉にはどうでもよいのだ。
 陸奥が頭を撫でてくれるが、和泉はもう、涙も出なかった。だから、すぐにこの目の色も治るだろうと思う。
 もう、悲しむ先も、無い。
 目の前には之定がいるのだから。

[newpage]

「ようやく出てきたか、和泉守。そなたが一番強いのだから、近侍をしてくれなければ困るのだが、陸奥に頼もうか?」
 審神者の声は本当に困っているようで、和泉は笑ってしまいそうになった。こんな声だったかな、と一瞬考えたが、どうでも良いことだ。近侍以外に姿をあまり見せない人だったのだから。
「『歌仙討伐』ではなく『歌仙を連れ戻す』命令でしたら拝受いたします」
 近侍など面倒くさいが、その命令を押し込めるのならば是が否も無い。
「説得、できるか?」
「命に賭けても」
 黒い紗の下で、紅玉の瞳が溶けていく。
 白い頬にしたたり、審神者を黙らせた。
「涙など、枯れたかと思いましたのに……」
 手のひらで拭った和泉は、それが黒く見えたので笑ってしまった。
 もう、和泉に色は見えない。
 たった一つの紅が消えたのから。
 世界は薄墨の絵のようだった。
 池に映る自分は喪服を着ているようだった。
「涙は枯れても、血は流れてるんだな…………刀の癖に……」
 審神者と喋っている自分の口調が歌仙に似ている、と気づいて尚更笑える。
 穏やかになりたまえ、とよく歌仙に言われたが、もう、怒鳴る気力も無い。
 今の自分は『穏やか』だろうか?
 静かではあるだろうが、この赤い瞳は『穏やか』の範疇ではないだろう。
 鬼の瞳だ。
 歌仙が帰って来てくれたらすぐに治るだろう。
 そう思ってまた自嘲する。
 連れ戻したいのはやまやまだが、『あの歌仙』が、自分のしたいことを実行しているのを、邪魔させるだろうか。
 そして、歌仙に出会えた場合、『するな』と自分は言えるだろうか。
 歌仙の夢なのに?
 歌仙の夢は『之定』となって叶ったのに?
 審神者の部屋から出て、庭で遊んでいる子供たちを和泉は眺めた。
 石切丸と追い駆けあっている之定。
 黒い髪の之定。
 黒い、髪の、之定。
 和泉は歌仙が夜、井戸の傍で髪を梳っているのを見たことがあった。歌仙は取り立ててどういう顔をしていたわけでもなかったが、和泉は声を掛けそびれて、寝てしまったのだ。
 翌日の朝見に行くと、辺りは砂でかき消してあったけれど、青い染料が見えた。
 青い染料、髪を梳っていた歌仙。歌仙の髪は紫。之定の髪は黒い。
 和泉の中で、自分の黒髪を愛でていた歌仙を思い出す。
 『歌仙』となったときに、歌仙の髪は赤くなったのだろう。それを、青い染料で紫に見せているのだ。
 毛先が濃い色なのは、あれ以上延ばすと真紅が強くなって染まらないのだろう。
 雅びが好きなならば、自分の髪を延ばすのが一番雅びな筈だ。
 延ばせなかったのだ、歌仙は。
 血の色の髪だから。
 自分の名前が嫌いなのに、その由来で変わった髪を愛でられるわけがない。
 だから和泉の頭を撫でてくれたのだ。
 自分が憧れた、長い黒髪だから。
 和泉が長い髪を舞い上げてはしゃいでいるのを、目を細めて眺めていてくれた。よくその髪を飾ってくれた。あれは、自分がしたかったのだ。
 歌仙は、内番をするときに髪に飾り紐をつけていた。布巾でぱっとくくってしまってもいいのに、紅い飾りを、自分の髪につけたのだ。
 もっと、延ばしたかったことだろう。漆黒の髪を結い上げて、次郎のように飾りたかったのかもしれない。けれど、あの紫の短髪では、どんな櫛も簪も似合わないし、差せないのだ。
 くったくの無い笑顔で、長い漆黒の髪を翻す和泉の姿が、歌仙が己に望む姿だっただろう。
「なんでそんなに………………お前一人、悲しいの…………? 歌仙……歌仙………………俺の……歌仙………………」
 和泉の瞳は、もっと白から逸脱して行った。
 もう、黒い紗で目を隠して数年。誰も和泉の笑顔を見たことはなく、新参の者は和泉の顔さえ知らない。
 すくすくと育つ之定。
 そして、その之定は、和泉を避けているようだった。和泉が伏せている間に参画した、石切丸や太郎太刀と常に一緒にいる。
 和泉を見る目は以前の碧玉と同じなのに、その中に蔑みの色を見つけて、和泉はまた吐きそうになった。
「なんで付喪神に内臓なんてあるんだよ……」
 呟いてから、その内臓があったおかげで歌仙と楽しめたことを思い出してくちびるを噛む。
 和泉は目に注目していて気づかなかったようだが、そうして噛みしめているせいか、そのくちびるは血を舐めたような真紅になっていた。たまに食いしばりすぎてかみ切ってしまい、いつもザラザラと荒れている。
 乱や次郎がくちびるに塗る膏を何度もくれたが和泉は受け取らなかった。
「別に、誰にくちびるで触れるわけでもねぇんだから」
 呟いて自嘲してしまう。
 歌仙がいたなら、そんなことを和泉は自分に許さなかった。歌仙に触れる自分の肌が荒れているのは極力回避したのだ。やわらかなあの肌に、自分の肌のささくれで白い筋が付き、そののち、紅い線となる。花びらを散らせるのは好きだったが、そういう『傷』は嫌だった。
 だが今は、誰に慮る必要もない。もともと大雑把な和泉は、そういうことに気を向けるのがそもそも面倒なのだ。
 歌仙が好むから、自分を綺麗に保っていた。『雅び』はわからないけれど、堀川でも『綺麗だよ兼さん!』と言ってくれるレベルならば、歌仙にとっても『汚い』範疇では無いはずだと思ったから。今はもう、堀川に着せられるまま、脱がされるままだ。
 以前、和泉の風呂上がりに、堀川のちょっとした気の弛みで服を用意されていないことがあった。その時、和泉はそのまま自分の部屋まで廊下を歩きだして、次郎に真っ赤な顔で押し戻されたものだ。その時、ついでにくちびるに膏を塗られた。
「くちびるが荒れたら痛いだろうって? 戦場で腕斬られる方が痛いだろ」
 そうとしか、思わなかった。
 そのくちびるから溢れるわずかな痛みは、歌仙をあの城壁に問い詰めたときの指の怪我を思い出す。
 初めて、歌仙と分かり合えた、あの日。
 歌仙と夜をともにしたのもあの日が最初だった。
『ああ……雅びな香りだね……』
 歌仙がそう言って微笑んでくれるから、着物に香も焚き締めたし、手指も清潔に保った。太刀の根元で爪を切っているといつも歌仙が微妙な顔をするが、器用だね、と笑ってくれるから気にしなかった。
 今でも、軍団の長としての威容を示すために着飾り、綺麗でいることはするが、その他のことはどうでもいい。元々が敵や外に対しての威容だから、本丸にいるときは身なりなど気にしなかった。ただ、とにかくなんでも面倒くさいので、アクセサリなどはつけたらつけっぱなし。着飾りたいから本丸でもそれらをつけていたわけではなかったのだ。
 自分の体で大事なのは、よく歌仙が触ってくれた髪だけだった。座るときも畳に着かないように肩に掛ける。それは今も一緒だ。
 いっそのこと、丸坊主にしてしまえば、何もかも忘れられるだろうか、とさえ考えて苦笑する。
 僧籍に入って墨染めの衣を着ればいい。
 毎日毎日頭を剃って、歌仙のことを忘れてしまえばいい。
 忘れる?
 歌仙を?
 あの歌仙を、忘れる?
「歌仙を……忘れる? …………この俺が?」
 自分で呟いて、笑ってしまう。
 また涙が溢れたが、すぐに紅い絨毯に吸い込まれてしまい、和泉は気づかなかった。
 そんなことができたら、和泉はここまで強くもならなかったし、折れずに居たかどうかも危うい。
 審神者が好きではないから、すぐに出奔した可能性もある。
 歌仙が言うから鍛練をした。
 歌仙が言うから綺麗でいるように気をつけた。
 歌仙が言うから……
 歌仙がいたから……
 今生で和泉が意識を持ったその時から、歌仙は、居たのだ。
 けれど、それで言うと、陸奥も短刀達も、みな、一緒だ。
 近侍である歌仙は、付喪神が生まれて最初に会う刀なのだから。
「…………歌仙…………………………………………会いたい………………」
 和泉が願うのは、ただ、それだけだった。

 之定は、太郎太刀と似た長い黒髪をこれ見よがしに背に流し、たまに隊長も勤めるほどになっていた。

[newpage]

 堀川が手をかけてくれるのもあって、和泉の髪は艶々しい。之定より綺麗なのが、和泉の中で少しだけ溜飲の下がることだった。
 歌仙が望んだ己の髪より、和泉の髪の方が綺麗ならば、歌仙が黒髪だったとしても、歌仙は和泉を見てくれただろう。
 人間の青年期で成長がほぼ止まるらしい付喪神。和泉の髪は、歌仙と別れたころからそう伸びてはいない。
 まるで、歌仙がいないから時が止まったかのようで、和泉は少し、嬉しかった。
 自分の黒髪に、歌仙の白い指を見る。
 もう、瞳はマヒしてしまったのか、畳に血が落ちるまで、泣いていることに気づかなくなってしまった。
 だからか、和泉の部屋は紅い絨毯をしかれている。枕も布団も紅い。そのせいで、自分が泣いていることを、余計に和泉はわからなくなった。堀川に顔を拭かれてようやく気づくが、悲しくて泣いているわけでも無いし、そうなったから何が変わるわけでもなく、心を動かされなくなっていく自分にたまに気づくが、それもどうでも良いのだった。
 歌仙が居たころは、あんなに毎日楽しかったのに……と、たまに思う。もう、十年が一日のよう。
 敵が刀を振りあげたときに動かなければ、この面倒くさい今生も終わる。
 そう毎回思うのに、なぜか反撃して血しぶきを散らし、その赤だけが和泉の目に色づいて見えた。色が見たくて、敵を殺している。そう言っても過言ではない。
 色が、見たかった。
 歌仙のあの雅びな色が、見たかった。


 藤の花がどんな色だったか、もう、和泉は思い出せない。

[newpage]

 歌仙がいなくなって一月ほど経った頃。和泉は多少困惑していた。
 以前歌仙が手紙を出していた相手が、『近侍』ということで和泉に普通に手紙をよこしだしたのだ。
 そこには『歌仙殿が亡くなって』という言葉は一切なかった。
 本丸以外の者たちにとっても、変わった歴史は忘れてしまうものなのだろう。
 歌仙が受けていた会見は、『和泉守兼定』のために和泉自身にはなくなったが、時代に寄って他の刀達に割り振られる。
 そして、遠征依頼が山のように来ていた。この一つ一つに歌仙が返事をしていたのかと和泉は驚き、その全部を今から自分がしなくてはならないのかと困惑した。
 文面を言ってくれたら僕が書くよ、と堀川が言ってくれたから、それら全部を和泉は読むだけで済むようになって安堵する。文を書くことに関しては、江雪左文字や宗三左文字,山伏国広に蜻蛉切やへし切長谷部や鶯丸も手伝ってくれた。全員で卓を並べて筆を持っている様は、寺子屋のようだ。
『これ全部歌仙殿が書いてたのかい? そりゃ忙しかった筈だよね』
 と、みな感嘆しきりだ。
 だが、見過ごせないのが、『遠征先での閨中の誘い』と『暗殺依頼』だった。
 歌仙が居なくなって、審神者はとんと部屋に居なくなった。以前は歌仙が、『明日はどこそこの時代に飛ぶから』と教えてくれたが、今は飛んでから驚いて、和泉が審神者の部屋に行くとどこそこへ出撃しろ、と文書が置いてある。
 審神者もきっと、歌仙以外に興味が無いのだろう、と和泉は考えた。
 だから、この部屋から出て来なかったのだ。歌仙の顔が見られればいいから。
 とたんに資材が滞りだし、町に出ても買い物を断られるようになった。以前は勝手に買ったら月末に御用聞きが城に来て、まとめて払ってくれていたのだ。
 和泉はその手筈を知らないから一切関知しなかった。その上で、陸奥と薬研と堀川で財政状況を調べてもらったら、火の車どころではなかったのだ。本当なら、御用聞きに金を払ってやれ、と陸奥は和泉に言いたかったが、そういえる金子はどこにも無かった。
 どれだけ歌仙が金を稼いでいたのか、ということだ。
 屯田を広げ、部隊を小隊にわけて頻繁に遠征で稼ぐしかない。閨中への誘いは、遠征した刀達に任せた。喜んでむしり取ってくる加州清光は、自分への飾りまで買わせて、以前より綺羅綺羅しくなっている。
 そんな所に同田貫が和泉の部屋を訪ねてきたのだ。
 深夜。
「暗殺依頼、請けろよ。近侍殿」
 挨拶も無く和泉の前に立った彼は、右手の人差し指で和泉の紗を抜いた。
「いい色の目だな。紅珊瑚みたいだ。高く売れそう」
 ククッ、と笑う同田貫。
 その声には、蔑みや嘲笑はまったくなくて、和泉は緊張が解けた。
 尻をつけずに身をかがめて、同田貫は真正面から和泉を見る。
「遠征より暗殺の方が稼げる筈だ。俺に命令しろ、近侍殿。あんまり農作業ばっかりさせて芋ばっかり食わせてると、みんな散るぜ?」
 彼らは農業の専門家では無いために、植えれば腹が満ちる芋が畑仕事のメインなのだ。それと、栗の木を山ほど植えてある。米は刈り取って乾かして脱穀しなければならないが、芋は掘り出してすぐに食べられるし、乾いていなければ水をやる必要もない。食べ残しを植えれば次から次に太る。有難い作物だ。勿論、農業の基礎を知らずにしているから、肥料などが中途半端で売れるようなものにはならないが、自分たちが食べる分には十分なのだった。
 歌仙しか居なかったときに審神者が薩摩まで二人で旅行して、さつまいもを離島から分けてもらってきたのだった。それを今や、城の庭まで使って植え増やしていた。
 最近、町で米や野菜が買えないから、芋と芋のツルしか食べていないのだ。汁とて、味噌が買えないから澄まし汁。海の傍に次元移動したときに、海水を酌んで塩をしのいでいた。
 以前、歌仙の心意気を認めた三日月宗近が参画していたが、先日、和泉に挨拶に来た。三日月も、和泉の紗を指先で取って顔を覗き込んでくる。
 和泉が客用座布団をその足元に置き、自分は外したが、座す気配は無い。
『気に入っておった歌仙がいなくなった上に、他から高値で招聘されておるし、兄弟たちをこの貧しい城に置いておきたくもない。
 どうじゃ? 和泉の。
 おぬしが俺の興を買うのならば、歌仙を待つ間、いてやらぬでもない。よそから俺が資金を引っ張ってきてもやろう』
 仲間を全員引き抜いて出て行くのを見送るか、仲間と金と引き換えに自分の愛人になれ、と三日月は和泉に告げたのだ。
 歌仙がいなくなってから、和泉はまったく色事を受け付けなくなっていて、三日月の誘いも断り続けていた挙げ句のできごとだった。
『この赤い目は、よいの。よいの。稀に見る紅玉じゃ。愛でてやろう程に』
 歌仙を忘れろとは、言わぬよ? と、言ってくれたのがまだ優しいのだろうか。
 和泉は、畳みに手をつき、一礼した。
『長い間、お世話になりました。良き旅路でありますよう、祈っております』
 三日月が逆立ったことを、和泉は頭を下げたまま、見なかった。
『そうか、それは残念じゃな。次の主が、お前を討て、と、俺に命令しないことを、祈っておれ』
 部屋を出て、三日月が振り返っても、和泉は畳みに平伏したままだ。
『危急存亡の事態には俺を招聘しろ。どこにいても、駆けつけてきてやろうほどにな』
 お前が俺をもてなすのならば、いつでも帰って来てやる。そう言われて、和泉はただ、頭を下げたまま。以前なら障子を蹴り倒して切りかかったかもしれない。見ていた堀川が心配するほどに、和泉は動かなかった。
『これで食費が三分の一浮いたな……。遊興費はほぼ無くなった』
 三日月が出て行った騒動がおさまったあと、和泉は低く呟いた。
 何かと言うと金のかかった遊びをしたがる平安組に、陸奥がいつも苛々しているのを和泉は見ていたのだ。今剣だけは、歌仙に義理があるから、と残ってくれた。彼も、歌仙に育てられたのだ。
 同田貫はそのことを和泉に突きつけて、他にも刀が去るぞ、と教えてくれているのだった。
 たしかに、歌仙はよく、大樽で酒を買って酒盛りをさせていたし、菓子をたくさん買ってきていた。町から物を買うのならば、この時代、菓子などの甘いものは高価だ。和泉はその価格を知らないから気にしていなかったが、今見ると、とんでもない金額がそれらに使われていた。
『こういうことに吝嗇を示すと、軍隊は散ってしまうのだよ』
 そう、言っていた歌仙。
 たしかに、今、散った。
 審神者は怒るかもしれないが、彼女が怒ろうと和泉はどうでもいい。
 歌仙を追うだけならば自分一人でもいいのだ。
 軍隊で山に入るから誰かに遭遇して戦いになるだけの話だった。一人で動けば忍び動ける。戦いにならないのならば軍隊はいらないのだ。彼らは、町の警護は一切担っていないのだから。
『お前も、好きな所に行っていいんだぜ? 陸奥』
 和泉は他の者にもそう告げていた。
 好きな所と言っても、三日月のように招聘してくれる主はそういない。それに、古参の殆どは、和泉が心配だった。
 それと、之定や石切丸のように、参画したときから歌仙がいなくてこの生活だった者は別段文句も無いようだ。
 付喪神は実際、『食べなくても生きていける』のだ。
 ただ、人間のまねをして食事をしたら『美味しかった』から、娯楽や、みなが一同に会する時間として続けていただけだ。審神者が『あなたたち付喪神なんだから食事なんていらないでしょう?』と出さなければ、それはそれで誰も文句は言わなかった。
 之定は、石切丸と太郎太刀が一切の飲食をしないので、それに付き合っていて食べものに興味が無い。ただ、祝いの膳などには付き合って席に着く。食べても支障は無い。だが、食べなくても良いのだから食料は他のかたへ、ということだった。
 食べものや遊興に興味がなければ、この本丸の貧しさも気にならないのだ。
 それぞれの刀が、自分が着飾る分や食べる分は自分で調達してくるようになって、会計を預かる陸奥や薬研の労力はぐんと減った。みな、町に女や恋人を作った、ということだ。
 和泉に金策などできるわけがない、と古参は知っているから、最初から文句を言わなかったのだ。
 そして、同田貫のこの申し出。
「お前がしたくないことはしなくないい」
 和泉は彼の目を真っ直ぐに見つめて宣言する。
「俺は、人を、殺したい」
 同田貫は言い切った。
「ただ、この時代の人間たちを殺すのは、審神者の命令でないと身が砕けると前近侍から聞いてる。だから、近侍の命令で仕事を受けた。俺は砕けてない。だから、今近侍のお前の命令なら、俺は砕けずに人が殺せる」
 別に砕けてもいいけどな……と、彼は口の中で呟いた。
「もっと、俺を、使え」
 ぺちぺち、と、彼は和泉の頬をそのガサツな手の平で叩いた。
「本当に、いいのか?」
 問い直されて、同田貫は鷹揚に頷いて見せた。
 堀川が、三通の手紙を和泉の手元に出す。それを同田貫に渡そうとした和泉は、突き返された。
「前のにも言ったが、俺は字が読めねぇ。理由とかどうでもいい。場所と名前を言え」
 堀川が同田貫に耳打ちする。
「三日、五日、二日……だな、片道。帰参は来月」
「その金で、菓子と酒を買ってきてくれ。たんまりと」
「城が埋まるぜ」
 暗殺の仕事は何百両になるのだから。
「積み上げていた方が、覇気も出るだろう」
「買い物はそいつに任せる。俺も、メシはいらねぇ。食わなくていいと知ってたら最初から食わなかったのにな。食うのが面倒くせぇ。食わなきゃ出ないから、楽になった」
「俺もだ」
 赤い目で和泉が笑った。
 どちらからともなく拳を突き出して、小突き合う。
 最初にあったときに玄関先で喧嘩を吹っ掛けた。あの時の他には一度、喋ったことがあるだけだったのに。
 和泉は今、殆ど誰とも口を聞いていないのに、以前よりとても、みなと繋がっている気がした。
 みなに愛されていることを実感して、近侍としての焦りは無くなった。
 けれど、和泉が一番ほしい愛だけは空っぽのまま、時間だけが過ぎて行く。
 歌仙がいなくなったのは秋だったか春だったか、もう和泉は忘れてしまった。

[newpage]


 ある時、堀川がくすくすと笑いながら和泉の髪を梳いていた。
 懐かしい香りを感じて、和泉は堀川の手を止めさせる。
「どうしたの? 兼さん」
「このにおい」
「におい?」
 くんくん、と堀川が自分の袖に鼻を聞かした。
「ああ、之定が着物に藤の香を焚き締めているから、移ったんですね」
「藤?」
「この前町で、良い香を見つけたから、とはしゃいでいました」
 堀川も気になって之定に聞いたのだ。
 それは、歌仙が炊いてた香だから。
 やはり、和泉は歌仙の『モノ』に反応するのだ、と堀川は理解した。それ以外は意識を向けることすら無い。先日、同田貫が夜中に訪ねてきてくれたあと、少し軟化はしたが、それだけだ。
 こんなに時間が経っても、愛って尽きないものなのだな、と感嘆する。自分がその相手ならば、和泉にこんなに悲しい思いをさせないのに……そう思って何度泣いただろう。次郎にはバレているので、たまに膝を借りて泣かせてもらった。
 和泉が歌仙を想うように、堀川は和泉が大事だった。和泉だけが、大事だった。和泉が笑ってくれるのならば、歌仙と幸せになってほしいと想うほど。もう、母親の気分だ。
 たまに、自分を見てくれることが嬉しい。
 近年では、和泉の顔を見られるのも堀川だけだから。それは、嬉しい。密かな独占欲だった。
「そうそう、そのにおいがついた原因。之定が僕に質問して来たんですよ。
 兼さんの髪があんなに艶々しているのは僕が何をしているのか、って」
 歌仙が自分の髪を自慢にしていたら聞きそうなことだな、と和泉は久々に笑った。堀川の前では、和泉は紗も着けないし、眼も開けている。
 ようやく見られた和泉の笑みに、堀川も大きなため息をつくほど安堵した。
 笑えなくなったわけではないのだ。ただ、心が動きにくくなっただけなのだろう。
 前よりは髪が伸びたので、長い部分を頭頂でくくって地面につかないようにしていた。切ることを進めたくは無かったし、『地面に着くから髪を上でとめますね』と堀川が言ったときに、和泉も『では切ろうか』とは言わなかった。
 和泉は和泉で『切りましょう』と言わない堀川に感謝していたのだ。
 歌仙の思い出の詰まった髪だから、切る、という雰囲気を出されただけで悲しかっただろう。
 黒いのに、艶々しくて豪奢な髪だ。
 日が経てば治るかと思われた和泉の白目は、いまだに血を含んでいる。新参の短刀がうっかり見てしまって腰を抜かしたのを、和泉の方が謝った。以前なら、勝手に見たお前が悪い、とでも怒鳴っていただろう。和泉は『とても穏やかな近侍』と思われている。
 穏やかなのではないのだ。荒ぶる心がもう、枯れはてているだけなのだから。
 熱い心があるのに、それを押し隠して静かだった歌仙とは、違うのだ。
 歌仙がよく見ていたように、和泉もよく空を仰ぐ。
 あの流れる雲に、今日の日を想像していただろうか?
 晴れ渡っているのに墨染めの空。夕日も夕焼けも見分けがつかない。まぶしさも感じない。
 歌仙の姿が唯一眩しかったから。
 嘘つきの歌仙。
 愛おしい歌仙。
 和泉を、いともたやすく極楽に舞い上がらせ、地獄に突き落とす歌仙。
 もう和泉の中で、歌仙が居なくなってからの時間が、歌仙と過ごした時間を上回ってしまっていた。

[newpage]

 この本丸は、和泉のまわりの古参と、之定を中心とする新参に派閥が別れてしまっていた。
 なぜなら『歌仙を連れ戻す』ということは、『之定が消える』ということでもあるからだ。うっかりと口を滑らせることができないので、疎遠にならざるを得なかった。
 そして、『食事を本丸で取らない者が多くなった』ことで、本丸の財政は浮いたが、その分、みな外に出て行き、一同が会する機会が減った、というこことでもある。
 新刀たちは『歌仙』を知らないので、『歌仙を連れ戻す』と言っても、自分たちの知らない古参の誰かだろうと気にはしていなかった。
 歌仙は頭がいい。
 いろいろと手を変え品を変え、忠興を守ろうとする和泉たちの手をかい潜って忠興を何百回殺されただろう。
 殺されるたびに少し前に、少し前に時間移動するのがわかっているのか、歌仙も過去にさかのぼり、一度は、忠興の二代前の当主を殺して、細川家自体を零落させたことがあった。
 歌仙が和泉に囁いた通り、審神者は軍事的にほぼ愚鈍と言ってもよく、和泉が歌仙を上回れる筈もなく、もう数十年、細川家のまわりで一行はうろうろしている。長く一つの時代にいるのでみななじみの恋人が町にいる。
 たまに、和泉だけは歌仙に会えているのだ。
 和泉はあの夜、歌仙と二人で出撃したのだから侵入経路を知っている。それでも、十回に一度会えればいい方だ。そして、会えば会話をしてしまう、抱き締めてしまう。口を吸われたらもう終わりだった。
「愛しているよ、和泉」
 いつも、そう囁いてくれる歌仙。
 紫色の髪の歌仙。
 嘘つくな、と言えない。
 なら、俺の所に戻ってきてくれよ、とも、言えない。
 けれど、その一言を聞ければ、この先数年正気が保てる、と、和泉はいつも思った。
 自分が狂い掛けていることを、その一瞬だけ思い出す。世界は花色で埋めつくされる。
 なんて美しい、和泉の視界。
「俺の歌仙…………」
 瞳はもっと赤くなる。
 このまま歌仙と共に行ってしまいたい。
 審神者を、仲間たちを裏切って歌仙と共に行きたい。
 けれど、誘われたことが無いし、実力的に自分が着いて行けるのかも謎だ。そして、きっと、と、和泉は思うのだ。
 断られたら、俺は狂ってしまうだろう。
 歌仙のことも忘れ、役に立たない付喪神として溶かされるかもしれない。暴れて仲間たちを損壊するだろう。
 第一、自分が審神者を押さえているから『歌仙を連れ戻す』で済んでいるのだ。『歌仙を滅す』と命令が出れば、もっと歌仙の足回りは狭まる。
 たまに部屋に表れる審神者は、段々人語を解さなくなってきたように、和泉は思った。どう見てもがりがりに痩せているし、もう、声も嗄れて、男か女かもわからない。
『歌仙はまだか?』
 彼女の言葉はそれだけになっていた。
 そんなことは和泉が聞きたい。
 歌仙が出てくる時代に飛ばしてくれ、と。
 げーむがどうの、しすてむがどうのと、和泉にはわからないことばをたまに口走る。
 この女、狂ってるな……と、和泉は一歩引いた。
 ああそうか。
 こいつも、歌仙がいなくなって狂ったのか。
 そう気づいて、初めて、和泉は審神者に対する愛情を感じた。
「歌仙は必ず見つける、審神者」
 和泉は審神者の手を取って告げた。
 冷たい手だ。人間ではない自分の手の方が熱いとはどういうことなのだろうと、和泉は苦笑しかけて押し黙る。今、変なことをすれば審神者が発狂しかねない空気を感じたからだ。
 この女は、未来の俺だ。
 俺も、狂ったらこうなる。
 骨ばかりになったその手を、熱を移したいかのように強く撫でた。
「歌仙はかならず見つける、審神者。俺を信じろ」
「本当に? お前が、見つけてくれる? げーむしすてむからもいなくなった、歴史からもいなくなった歌仙を、見つけてくれるのか?
 それより……お前は歌仙を覚えているのか? どこからも、美術館からもいなくなってしまったのに?」
 やはり、審神者の言葉は和泉にはわからない。
 それでも、答えは一つだった。
「ああ、俺が見つけてやる。だから、歌仙のいる時代に俺をつれて行ってくれ」
 審神者の手は震えていた。泣きながら頷いてくれる。
 和泉とて、待っているのだ。
 歌仙を。
 和泉の歌仙を。
「愛してる……歌仙………………俺の、歌仙……」
 囁くだけ。
 手を延ばすだけ。
 衣の先にでも触れられたら、それでいい。
 指に残る藤の香りで一晩は笑って居られる。
 一緒に行きたい。
 行けない。
『無理だよ、和泉』
 そう、言われたくないから、聞けない。
 歌仙が好きなことをしているのに、止めることもできない。
 そう。
 和泉は、歌仙を止めることなどできない自分を知っている。
 追い詰めたとしても逃がしただろうが、まだそこまで故意に『捕まえない』と考えているわけではなかった。
 ただ、『自分が歌仙に勝てるわけが無い』そう、実感しているから、『止められるわけが無い』と確信している。
 『できる』と思ってもできないことがあるのに、『できない』と考えてはできるものもできない。
 そして、歌仙が袂を別った時は、和泉より歌仙の方が圧倒的に強かった。和泉一人で歌仙を山の中に追い詰めても、本気で逃げようとして刀を振りあげられれば、和泉の首は軽く飛んだだろう。
 だが、今ならどうか?
 歌仙と共有した和泉の時間を倍する歴史が流れた今、その分歌仙も時を生きてはいるが、『和泉より長く生きていた期間』は相対的に短くなる。
 そして、毎日の鍛練を欠かさず、今でも一番隊隊長を勤めている和泉の戦歴は、隠れ潜んでいる歌仙の経験をうわまわってはいないだろうか?
 付喪神の強さは『存在している時間の長さ』が直接的に影響するが、その時間の間にどれだけ鍛練したかの経験値は当然加味される。
 歌仙は、和泉と同じだけの戦いを、こなしているだろうか? 和泉たちが追い駆けているとは言っても、歌仙と部隊が相対することなどほぼ無いのだ。だが、和泉たちの方は時間遡行軍や検非違使を常に相手にして強くなっている。
 今なら、俺が勝てる?
 一対一なら、勝てるか?
 連れ戻せるか?
 和泉のその疑問は、してみなければ、解けない。
 だが、実行してみて首が飛んだらどうする?
 命を賭けて歌仙に拒絶された悲しみの中で消滅するしかない。
 そんなことは、どうしても、和泉にはできないのだった。
 歌仙が死んだのならば自分も死んでいい。
 けれど、そこに歌仙がいるのだ。
 その歌仙に、殺されるかもしれない、恐怖。
 その危険性は和泉の命を奪うだけではない。
 和泉が止めている『歌仙討伐』が実行されれば、歌仙の命の危険度も上がるのだ。今の狂っている審神者には、もう陸奥の言葉も通じないだろう。
 死にたくない。
 歌仙が居るこの世界で死にたくない!
 そう思う和泉を、誰が責められるだろうか。
 ただ、歌仙には会いたいから、全力で歌仙が出てくるところには部隊を導く。歌仙は逃げる。その後ろ姿を目に焼き付けて、和泉はまた、泣くのだ。
 この時も、和泉は野営を抜け出して、歌仙の後ろ姿を見つけることができた。辺りを伺う歌仙の白い横顔が見られて、和泉は微笑んでしまう。
 手を延ばせば衣に触れられる? 手を掴める? その熱を、感じられる? 抱き締められる?
 まだ、和泉には気づいていない、歌仙。
 今日も、綺麗な、和泉の歌仙。
「本当に僕と同じ顔なのだね。気持ち悪い」
 その時、歌仙と同じ声が、和泉の後ろから、した。
 和泉がそっと歌仙を呼ぼうとする寸前だ。
 前からではない。後ろから聞こえた、声。
 後ろ? 俺が、あとをつけられた? 誰に?
 まったく背中が無防備だった。今、敵が後ろにいれば、和泉は間違いなく殺されている。
 味方だったから、まだ良かった。
 良かった、けれど。
 月明かりに浮かび上がるその顔は、藤の香りで彩られていた。
「之定っ……お前ッ!」
 和泉が振り返ると同時に、之定は呼び子を吹いた。その笛を和泉が叩き落として歌仙を振り返る。
 もういない。居るはずが無い。
「和泉っ! 之定っ! 無事かっ!」
 一軍の面々が駆け込んでくる。
 呼び子が途中で切れる、ということは、それを吹いた者の絶命を意味することが多いから、みな必死だった。
「歌仙が居ましたよ! 山の麓まで捜索しましょうっ! 早くっ!」
 之定の甲高い声と同時に、みなが和泉を見る。特に、陸奥が和泉の顔をぐるっと覗き上げた。
「ああ、かかってくれ」
 それを手で押しはなして和泉はみなに下知する。真っ先に之定が駆け下りて行った。純粋な文系でないのは歌仙と同じらしい。街の方も、呼び子が聞こえたからだろう、みな家の外に出てきて辺りを伺っていた。城も警備を強めたことだろう。今日の襲撃は無いはずだ。
「撤収っ! 之定はどこだっ! あの野郎! つるし上げてやる! どこにいるっ!」
「落ち着けイの字っ! 之定がなんした?」
「あいつが声を上げたから歌仙が逃げたんだよっ! もうちょっとで捕まえられる距離だったのにっ! 之定っ! どこだっ! 殺してやるから出て来い!」
「そげんこと言われたら出てこれんちゃね」
 陸奥も他の者に之定捜索を頼んで和泉と崖を上がる。言われずとも、和泉の怒声でみな之定を探していた。
 ここにいるのはほぼ古参だ。『歌仙のことで激怒』した和泉を知っている。之定は折られるかもな……と全員が嘆息した。その前に逃がしたい陸奥の心もわかる。
 それとは別に、久々に聞けた和泉の張りのある声に、一同が頬をゆるめたのも事実だ。まだ怒鳴ってる怒鳴ってる、と、次郎はクスクス笑ってしまう。
 和泉が陣に戻ると、山狩りだったために馬が全部いる筈なのに一頭足りない。全員に確かめさせると之定がいないようだ。
「紅蓮華っ!」
 和泉が自分の馬を呼んだ。
「お前に殺されるのわかって逃げたんき? ……あっ! 和泉ッ! ワレ、どこ行くがっ! ワシらはっ!」
 寸暇なく駆けつけて頭を下げた赤毛の愛馬に和泉は乗りあがり、何一ついわず闇に消えた。
「待っちゃっ! 和泉っ! 紅蓮華っ! あーもうっ! なんてかわいくない馬じゃっ! 双方ともっ!」
 和泉の目に巻いていた紗が、今の事態とは相反して、ふわりふわりと落ちていく。それを懐に突っ込んで、陸奥は全員に叫んだ。
「おうっ、全員帰るぜよっ! 全部置いていけ! とにかく本丸帰還じゃっ! 之定が和泉に殺されるきっ! はよはよはよはよっ!」
「陸奥どのっ! ぼくのうまがいちばんはやいですっ! 和泉殿をおいこせるかもですっ! なにかできることはありませんかっ!」
 狭い山道を今剣が、先頭の陸奥に並走する。
 それが、今剣が待ち望んでいる岩融の言葉ならどれだけ心強いだろう、と陸奥は思った。噂に聞く岩融の巨体ならば和泉を止められるかもしれない。だが、今参画したとすれば経験値が足りず、この事態には間に合わない。大体、この部隊に岩融がいたとすれば、間違いなく陸奥より馬は遅いだろう。
 今剣と乱が、和泉より早くこの本丸に来ていた。二人が太刀ならば和泉より強いだろうが、いかんせん短刀だ。
 今しなければならないのは『あの和泉を止めること』だ。
 今剣にできる筈もなければ、頼めるわけも無い。和泉が手を払っただけで粉みじんに分解されるだろう。身が軽いからよけられるかもしれないが、それだけだ。『止める』ことなどできはしない。面倒な男が長になったもんじゃ……と、食いしばった歯の間から嘆息する。
「之定を逃がすんじゃっ! 全員本丸退避っ! 和泉の傍に誰も寄るなてっ! 和泉を追い越して走れっ! けんど今の和泉に近づくなっ! おんしもぜよっ、今剣っ!」
「之定どののいちじたいきょと、本丸のひとばらいですねっ! 主様はいかように!」
「主さんにまで和泉も手は出さんじゃろっ、部屋を出てこんじゃろしっ、他のだけでイ!」
「うけたまわりましたっ! つゆはらいはおまかせあれっ!」
 陸奥の二倍もの速さで今剣が、山道ではなく絶壁を駆け下りていく。天狗の能力を発揮して、本丸まで一直線で走る気だろう。これは和泉をさきまわれる、と陸奥は少しときめいた。そして手を上げて隋人に叫ぶ。
「全員陣の撤去に戻るがやっっ! そののち、戦闘をなるべく避けて本丸帰還! 本丸の状況見て、一時逃げるのもありじゃっ! 和泉に近づくなっ! ええかっ! 次郎もっ、面白がって覗くんじゃなかとよっ!」
「わかった、わーかったっ! はい、みんなーっ! 陣に戻るよーっ! お片づけお片づけっ! 物資はつかいまわさないともったいないからねーっ!」
 次郎はああ見えて面倒みが良い。新参もいる部隊だが、どうにか連れ帰ってくれるだろう。あとを気にせず、陸奥は本丸に走る。
 和泉の次に強いのは自分だ。万が一のことがあれば、対処できる者は他にいない。
「ワシャー……肉体派じゃないきに……、なんじぇイの字のおもりをせんならんのじゃっ!」
 ワシの拳銃、アイツに効くんかのう? 試してみてもよかが? などと物騒なことを考える。
 だが、いまだ朝日の兆候もなく、月が陰って、陸奥は目を凝らした。
 街灯などある筈も無いこの時代の闇夜というのは、延ばした自分の指先すら見えない、本当に真っ暗闇た。だが、打刀である陸奥は夜目が聞く。太刀の和泉はさすがに止まっているだろう、差を詰めるならいまじゃ! と馬を走らせた。
「どうか、おっつきさんっ! 朝まで隠れちょって和泉を立ち往生させてくれやっ! 頼むぜよ!」
 闇夜の中では、和泉に互角にできるかも、と陸奥の心に一条の光が差している。
 陸奥が本丸に着いたときには、之定の馬が居たが、紅蓮華がいなかったために先回れたか、と陸奥は喜んだ。


[newpage]

 之定は本丸の玄関先で馬を降り、奥まった審神者の部屋へと廊下を走っていた。
 以前、歌仙が居なくなったときに困ったので、和泉は陸奥に審神者の部屋を教え、そこからみなに、場所だけは伝えるように言ったのだ。之定は何度か部屋の前まで行ったことがあるので道順に迷いは無かった。
 そこへ、石切丸と太郎太刀が楚々と走ってくる。二人とも、両手一杯に教典を持っていた。
「どうしたのですかっ、之定っ! 本丸は退避命令が出されましたっ! 危険ですっ、君も早く逃げて下さいっ!」
 走ったまま之定は聞き返す。
「退避? 何があったのです?」
「理由は聞いていませんっ、今剣殿が、危険だから退避するように、とっ! もう、全員町に出ています! あなたも早く!」
 今剣は先程、之定と一緒に山の中に居たのだ。ならば、和泉の命令に違いない、自分を審神者に合わせない気なのだ。そう之定は思った。それにしてもこの馬の速さはどうだ。之定は歌仙を探すと見せかけて崖を降りたが、隠れてすぐに山を登り、馬で帰って来たのだ。一頻り探した後に出発したはずの今剣が自分より速いとはどういうことなのか。古参と交わらない之定は天狗の能力を知らなかった。
 古参の者たちは気持ち悪い……その実感がますます沸いただけだ。
「之定殿っ! これ、太郎よ、彼を引き戻しておくれっ!」
「離せっ! 僕は審神者に用事があるのだっ!」
「この危険時にしなくても良いでしょう!」
「危険など無いっ! 今日こそ、あの近侍を審神者の傍から引き剥がしてくれるっ!」
「和泉守の告発をする気ですか? 之定っ! まさか、この退避命令はそのため? そういえば、今剣殿は君と一緒に出撃した筈…………和泉守が君を審神者に合わせないように手筈を打ったと?」
「それしかないっ! 和泉守が追って来ている筈! 早く審神者にお話ししないとっ!」
 石切丸も太郎太刀も、『城の危険』ではないと言われて、教典を持ったまま之定のあとを着いて走った。どのみち、彼らの部屋はそっち側なのだ。本丸から退避と言われて、建物の倒壊の危機かと勘違いし、それならば教典を持って逃げないと、と取って返したところだった。
「和泉守の告発とは何を? 之定っ! ただでさえ君は古参に恨まれているのにっ、そんなことをしたらこの本丸にいられなくなる!」
「『歌仙捕獲』の一番の足かせが和泉守だっ! 歌仙を前にして、ただ茫としていたっ! いつも『逃げられた』と言っていたが、なんのことはないっ、捕まえる気などあのかたはまったく無いのだっ! そんなものにこの数十年煩わされてきた僕たちの気持ちを審神者にお伝え申し上げるっ!」
「それでは、本当におおごとではないですかっ!」
「おおごとだよっ! そうでなくて、なぜこの僕がこんなに走っているとっ……」
「之定どのみっけっ!」
 猿のように柱や鴨居を飛び回っていた今剣が、之定の目の前に立ちふさがった。
 なりは小さいが、和泉と同じく、之定の数倍の時を生きた『古参』の付喪神だ。それを払いのけて行けるほど、之定は強くはない。
「本丸からたいひしてくださいと陸奥どのよりあずかっております! おはやくおにげくださいっ!」
「逃げる? 僕がどこに逃げると……大体、陸奥守より? 和泉守ではな……」
 名を呼べば現れる影のように、之定の声と共に、そこに、和泉が、いた。
 ひやっと息を呑んだ今剣が、すかさず屋根の上に跳び上がり、本丸の反対側へと駆けていく。
 和泉に睨み落とされている之定はまったく動けなかったが、石切丸や太郎は、この廊下から庭、壁が切り払われて破壊されているのを見た。
 之定は玄関で馬を放置したが、そこからは徒歩で廊下を歩いてきたのに、和泉は、馬で、来た。
 之定が審神者に会いに行くのを見越し、壁を破壊して直線距離でここまで駆け込んできたのだ。馬の足が障子を破壊し、畳みに泥をはね上げる。
 その馬色から歌仙が名付け、和泉に与えた紅蓮華。之定から見上げると、まるで和泉が燃え盛る炎の中にたたずんでいるかのようだった。
 退避勧告はこのためだ。
 石切丸と太郎は気づいた。
 この和泉に会わないように、本丸を去れと言われたのだ。
 先程の之定と今剣の話を石切丸は思い出す。陸奥から出た勧告だと、彼は言っていた。
 それは、そうだろう。
 この和泉が、誰かに避難勧告など出すはずが無い。
 陸奥守は之定を助けようとしてくれていたのだ! 石切丸はそう理解して歯噛みした。引き止めてしまったのは自分だ。もう少し廊下の向こうに行っていれば、和泉がここに駆け込んできたとしても之定は見えなかったかもしれない。
「審神者に、何の用だ?」
 馬の上から和泉が之定を睨み落として低く唸る。
 之定はその時初めて、自分の手が廊下の板の間に着いていることを知った。
 駆け込んできた和泉に腰を抜かしてしまっていたのだ。その分、和泉の頭ははるか高く、威圧感で押しつぶされそうだ。
 咄嗟に之定は立ち上がろうと手をついて、後ろで石切丸と太郎もへたりこんでいるの見た。教典が散らばり、庭に落ちている巻物もある。
「あそこで、なぜ、声を出した?」
 再びの和泉の下問。
 そこで之定はようやく、ごくりと喉を鳴らして和泉の馬の前に立ち上がった。真っ直ぐに和泉を睨み上げる。
 だが、暴れる馬に、一歩一歩引いてしまうのは仕方がなかった。
 和泉は静かなのに、その馬が荒れ狂っているのだ。まるで、之定を破壊したいと和泉が考えていることを馬が実現しようとしているかのように。
「ぼ……僕があなたの下位だとしてもっ………………ばっ……馬上からものを問うのは礼に反するとはっ…………思われませんかっ……和泉守!」
 石切丸が声を出せたら、君はもう黙りなさいっ! と言えたかもしれない。
 なぜ、この、明らかに激怒しているとわかる、はるか目上の付喪神に向かって、之定はそのようなことが言えるのか、正気を疑った。
 否、之定は正気なのだ。
 ただ、之定のまわりでこのように荒ぶる者が居なかったから、之定は『知らない』のだった。
 今までに石切丸や太郎が調伏した魔物より恐ろしい、逆鱗に奮い立つ魔神がそこにいることを。
 気づけないのだ。
 そこまで、之定に激情を向ける者など居なかったから。
 紗を取り去った真紅の目が血を流していた。
 だから彼の衣は紅いのか、と石切丸は合点する。
 いつも血のにおいがしているとは気づいていた。
 この目のせいだったのだ。
 だが、今この状況では、それは歌舞伎の隈取りのようにさえ見える。
 怒れる獅子の隈取りだ。
 三千世界を一刀でなぎ払う魔神の血化粧だった。
 その一滴が、白い顎からしたたり落ちる。
「僕はあなたを告発するっ! 和泉守! あなたは歌仙捕獲の長の座に就く資格が無いっ! 
 和泉を指さして、之定は睨み上げた。
「あなたは何度も歌仙に会っている!」
 陸奥でも口答えしないだろう、怒髪天を突いている和泉に、尚も言い募る。
 それに、和泉の背の炎が大きくなるのを、石切丸は眼球が破裂しそうな程、見つめていた。
 それ以上言ってはいけない。
 之定をそう窘めたいのに、声が、出ない。
 なぜ、この魔神の怒りが、之定はわからないのか、と。ここに居るだけで、自分たちは身が引き裂かれて吹っ飛ばされそうなのに!
「歌仙はあなたの念者(恋人)であろうっ! 毎回ほだされて、あなたが歌仙を見失っているのだ! 僕こそ問いたい! 我々や主の苦労をなんだと思っているのかとっ!」
 之定は自分の主張を終える前に、襖五枚分座敷の奥へと吹っ飛んだ。
 馬から飛び下りた和泉がその勢いで抜刀し、その峰で之定の腹を殴り飛ばしたのだ。
 居合の勢いで振り切られた鋼の一閃。それに、之定の胴体が泣き別れしなかったのは、まだ、和泉が手加減してくれたからだと石切丸はわかった。奥で之定が咽び泣き、吐き戻している音が聞こえる。
 刀は、血に濡れては、いなかった。
 だが、この場で刃を見せているのは和泉一人だ。勿論、本丸内での抜刀は御法度。本丸を出るときでなければ、普段は刀を持ち歩きもしない。
 石切丸も和泉と共に戦場に出たことはある。
 自分も大太刀を持って彼と並走した。
 その時は、ただ、和泉が誇らしかった。力強かった。
 味方、だったからだ。
 こんな、誰しもが刀を置いているところでただ一人抜刀するという卑劣さもが神々しく見えるほど、ただ、和泉は、強かった。
 その怒気で、本丸を炎上させかねないほどに。
 紅い和泉の視界では、襖の奥で薄い羽の蝶がもがいているように見える。
 藤色を好む之定の戦装束は、歌仙と同じ趣味だった。裏地にボタンを染めた外套を羽織り、胸に牡丹や藤や、季節の花を活けていた。彼の生け花は四季折々と雅びで、本丸のあちらこちらを飾っている。
 歌仙と同じことを、之定は、していたのだ。
 歌仙のことなど知らないのに。
 彼も、之定であり、二代目兼定だから。
 花が新しくなるたびに和泉は涙があふれたが、もう、自分では気づいてもいない。またここに藤を飾る時期が来たか。また白梅の季節が来たのか。
 歌仙がいないのに……
 心のどこかでそう呟いて、心がもっと乾いていく。
 歌仙を追い駆けて出撃し、ただ、数分でも、一秒でも、その白い横顔が見られるのが、数年に一度の楽しみだった。
 それを、之定に邪魔されたのだ。
 この、わけのわからない今生で得ることのできた、たった一つの、和泉の、妄執。
 紅い瞳の、鬼が、笑った。

[newpage]

「今剣っ! イの字はまだかっ!」
 やっと本丸に帰参できた陸奥は、馬から降りるのももどかしく、大門の前で待っていた今剣に怒鳴る勢いで問いただす。
「あるじさまの おへやへの おろうかですっ、おいけの おかが あるあたりでっ……」
「もう着いちょったかっ! くそっ! 案内せいっ!」
 今剣がパッと陸奥の後ろに飛び乗った。その指さす先に陸奥は馬で駆け下る。本丸内は勿論、騎乗厳禁だ。
 破壊された庭と壁。
 荒れ狂っている紅蓮華の向こうの廊下と、砂利の上に太郎と石切丸。
 暴れ馬にあおられて、陸奥の馬、足摺丸も前足をはね上げたっ!
「こらっ足摺丸っ! おちつかんかいっ! ワシを振り飛ばすがかよっ! 今剣っ頼むっ!」
「はいなっ!」
 今剣が、紅蓮華と足摺丸の鼻筋に人差し指を突きたてた。動物を自由自在に操るのは天狗の極意の一つだ。
 へなへな、と屑折れた馬から陸奥は飛び下り、石切丸を抱え起こす。だが、その体はこわばって動かず、その視線の先を追うと、廊下から少し入ったところに和泉が立っているのが見えた。
 左手に、抜き身を握り込んで。
 こいつ抜いちょうっ!
 咄嗟に陸奥は後ろに飛び跳ねた。
 その長い足で踏み込み、長い腕で振るわれる太刀は、予想以上に遠くまで刃を届かせるのだ。
 なぜ本丸が燃えないのかというほど炎を立ち上らせている和泉が、紅い衣でそこに居る。本丸では普通外す腰鎧も何もかもつけたままだ。
 その白い顎からは瞳からしたたった紅い滴がとろとろと流れ落ちて、時が止まってはいないことを告げていた。遠くで鳴る獅子威しがやけに遅い、と陸奥は思う。
「之定…………之定が……………………」
 失禁してしまっている石切丸が、陸奥を振り返った。
 あの和泉の視線の先に之定が居るのだろうことは陸奥にもわかる。だが、それに、嘆息して首を横に振った。
「……諦めぃ……」
 何を? と、石切丸は問えなかった。
 陸奥は和泉の背中を注視したまま指で今剣を呼び寄せて耳打ちする。
「……あの壁、板でいいが、中が見えんようしてくれんか? あとで修復させるき」
「……いますぐに……」
 陸奥の音量に合わせて、今剣も囁き返す。
「イの字が出てきたら、逃げぇよ」
 振り返った今剣は、グッと右手を握って見せた。
「む……むつ……どの…………っ!」
 玄関に戻っていく陸奥を石切丸が呼び止める。
「之定を弔うてやるやつまで切り捨てはせんじゃろ。動けんのなら静かにしちょれ」
 もう之定のことが諦められている。
 和泉守とはそういう人なのか、と、石切丸は涙した。

[newpage]

 之定は魔神と対決していた。
 否、『対決』していると思っているのは之定だけだ。陸奥や石切丸達から見れば、ただの私刑に他ならない。
 赤い瞳の鬼が之定の前でどんどん大きくなり、蹴り転がされて胸を踏みつけられた。
「ごふっ……がっ……ぁっっ! 雅びが足りないものはすぐ力に訴えるっ! 近侍だ、一番隊隊長だと言っても、おつむはその程度か和泉守兼定! 僕と同じ銘を冠していることを恥だと思え! 人切り包丁ごときがっ、着飾って血のにおいを消せると思うてかっ!」
「さすが文系、よく舌が回るぜ」
「あぐっ」
 口に拳を突っ込まれて舌を引っ張られ、之定の肩が浮いた。口から肩に、皮膚が引き裂けるかのような激痛が走る。
 そして、くちびるの先に太刀がひやりと据えられた。
「お前、本当にうるせぇわ」
 静かな声だった。
 静かな視線だった。
 和泉は微笑んでさえ、いた。
 その、紅い瞳で。
 之定は、今初めて、和泉が顔の紗を取っている事に気づいた。
 わかっていたはずだった。
 先程『紅い鬼が来る』と思ったのだから。
 その赤い目に覗き込まれ、魂の底から震え上がって涙があふれる。
 こいつは化物だ……
 之定は思った。
 言葉が通じない化物だ……
 石切丸が調伏しているのを之定は何度か見たことがあった。それらは彼の経文に苦しみあがいて消えていくのが常だ。
 だが、この化物に聞く教典といえば何がある?
 之定は石切丸の所持している文献を全部覚えていた。その中に、あっただろうか?
 付喪神を調伏できる教典が。
 こんな化物に何かされるぐらいなら……
「おっとっ!」
 之定は、自分で刀に喉を押しつけて切ろうとした。
 自害を、しようとしたのだ。
 だが、反射神経で勝る和泉がそれを気づかないわけもない。
 和泉の太刀は畳みに突きたてられ、之定は顔を手のひらで押さえて口をふさがれた。押しつけられる後頭部に激痛が走るが、赤い目がそんなものを感じさせない。
 この目が怖い。
 何より怖い。
 肉の体の痛みなど、もう、之定は感じなかった。
「死にたいなら、俺が真っ二つに割いてやるぜっ! 刀に内臓を作った審神者を恨めよなっ!」
 いつのまにかはだけられた下半身に楔を打ち込まれ、之定は一瞬気を失った。そして、立て続けの激痛に目覚め、暗転し、赤い闇に呑み込まれ続ける。
 僕は……神刀になる…………のに…………
 押さえつける腕に爪を立てるだけが、今できる之定の抵抗だった。それさえも、張り切った筋肉に爪が通らず、絹を掻きむしるだけだ。
「お前、俺の髪の艶が気に食わないらしいな?」
 髪を持って振り回され、之定は畳に激突する。
 振りあげられた和泉の拳に自分の黒髪が引っ掴まれて、居た。そこに太刀が振り切られている。
 自分の髪は長いが、和泉の腕のあの先まで届く筈が無い。
 軽い、頭。それを腕で探り、その喪失感に悲鳴を上げた。
「僕の髪っ! 髪っ! 切った!」
 自分も髪を延ばしているのだから、その『髪』の大事さは重々わかっているはずの和泉に、切られた、髪。
 自慢の黒髪だ。
 どんな汚れを受けても艶々しく之定を飾ってくれた、髪が、切られた。
「……あぁっっぐぁっあっ! …………ひっぃっ……もっ……もうっやめってっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃっ!」
 赤い瞳が、之定の悲鳴に満面の笑みを浮かべて見せる。。
「痛いっ! 痛いよっ助けてっ! もう動かないでっ! やめてっ! 助けてぇ! 石切丸っ! 太郎っ! 助けてっ! 主様っ! この化物殺してっ! 助けてっ! もうだめっだめっ……僕っ……だめっ…………」
「ダメじゃないぜぇ? お前の中気持ちいい。俺に食らいついてくるぜ? なぁ、歌仙……お前ここが好きだっただろ?」
「ギャアアアアアァァァァァァァァッッッ!」
 部屋中の畳が赤いしぶきで汚れている。その中を、熟練の者を相手にするように強く突き上げられ、ただ振り回された。
 舌を噛もうとした之定は、口に自分の髪を丸めてを突っ込まれ、噎せることもできずに悶絶する。
「お前を自殺させたら、俺が審神者から怒られるだろうがよっ! 今まで育ててやった恩を返してから逝けよなっ! 刀装ぼろぼろぼろぼろ溶かしやがってっ! くそ打刀がっ! そこまで強くさせるのにどんだけ面倒だったと思ってやがんだっ! 戦力になる間は死なせないぜっ! 何度も、ここを出て行っていいと俺は言ったな? 残ったのはお前だ之定っ!」
 之定は、畳に突きたてられた和泉の刀に手を延ばした。
 これで首を切れば死ねるのだ。
 この化物から離れられる。
 だが和泉もそれはわかっていた。
 指が届くけれど抜けない場所で凌辱を続け、あざ笑い続ける。ザクザクと、之定の指が血を溢れさせた。むき身の刃にすがりついても、自分が傷つくだけだ。
「神刀か神刀か神刀かっ! こんなことされても神刀になれるのかっ? あっ? てめぇが人を斬らねぇのが自慢なら、俺は人を斬って殺すのが自慢だっ! 国宝だろうが宝剣だろうが知るかよ! てめぇは経験の足りねぇ俺の部下でしかねーんだよっ! 笑えよ! 人切り包丁って笑えっ! アーハハハハハッッッッ! 代わりに俺が笑ってやるっ! すげぇっ楽しいっ! 数十年ぶりに笑った! アハハハハッッッ! ハハッ! お前は俺を楽しませてくれる天才だぜっ之定っ! あーもうかわいい、お前かわいい。もっとだもっと……」
 之定の口に突っ込んでいた髪を引き抜いて、和泉はその口に吸いついた。
「すっげぇ血の味がする。どこか切ったか? 歌仙?」
 優しく頭を撫でながら、殴打で晴れ上がっているその顔を舐め回す。
 手入れ部屋にも一緒に入られ、之定は全回復するのに三日かかった。
 


[newpage]

「おい、陸奥ーっ! むんむんムッちゃんっ! そこにいるだろっ!」
 手入れ部屋の様子を見に来た陸奥は、昔懐かしい呼び方をされて目を見開いた。
 まだ歌仙とそういう関係にもなっていなかったときの、あの激しく騒がしい和泉の口調なのだ。豪快に笑っていることがわかる高い声。涙など微塵にも感じさせない張りのある音。
 古参全員が、思わず笑ってしまった。
「どないしたっちゃっ! イの字! 俺はここにいるぜよっ!」
「おうっ! 紫の染料持ってきてくれよっ! それと歌仙の服!」
「染料はええけど……」
 そろりと集まってきた短刀に、陸奥は染料を買ってくるように言づけて手入れ部屋に近づく。
「歌仙殿の服をどないするがよ?」
「馬鹿かお前、歌仙をここから裸で出せるわけねぇだろっ! 浴衣でもいいから早く! そろそろ手入れ終わるから!」
 昔の明るい和泉の声に一瞬喜んでいた陸奥は、奈落に落ちるかのような凍気に包まれた。
 石切丸や太郎達も駆けつけてくる。
 彼らはあの日、和泉が之定をつれて手入れ部屋にいくまでずっと、あ部屋の前で凍りついていた。下に着いていた部分は褥瘡で皮膚が割れ、震え続けていたために全身の筋肉が硬直し、誰が被害者なのかとみなに疑われたものだ。
 ようやく歩けるようになったのだろう、青い顔の石切丸に陸奥はすがりつかれて視線を逸らす。彼らが言いたいことはわかっている。そんなことより陸奥は、和泉の動向が心配なのだった。
「…………一体、和泉守は何を考えてあのようなことを? 叱咤と言うにも酷すぎますっ!」
 普段のんびりしている石切丸が、陸奥を揺さぶり、涙ながらに訴える。
「なんとなく私たちにも歌仙という者と和泉守の関係はわかっています。之定が彼に似ているということも、けれど、していいことと悪いことがあるでしょうっ! なぜあなた方は彼を止めなかったのですかっ!」
「あいつを止めるがか?」
 陸奥は鼻で笑ってしまった。
「この本丸の、誰があの最凶近侍を止められるがかっ! 之定のために、ワシに壊れろっちゅーかワレっ!」
 和泉ほどではないにしても、この本丸で二位の陸奥にすごまれ、石切丸はその場にへなりと屑折れた。
 まだ、石切丸も太郎太刀も、和泉の、陸奥の経験値には追いついていない。
 あの時の和泉に、動くことすらできなかったのは自分たちだ。ずっと自戒していた。之定の悲鳴をただ、耳を塞いで震えるしか、できなかった。それを、陸奥に肩代わりさせようとした自分の言葉に、石切丸は身を切られるようで何度も土下座して謝る。
「おんしのせいじゃないが。謝るな。気にしちょらせんよ。あいつが破天荒なのはおんしのせいじゃないきに」
 石切丸も太郎太刀も、『祓える魔』には強い。だが、和泉のアレは、『祓えない魔』だった。
 憑依は祓えるが、魔神そのものを祓うことなどできないのだから。
 第一、石切丸が祓えるのは、『自分よりも弱い魔』たけだった。
 否、この世に、あの和泉を祓える者などいるわけがない。
 之定の態度が悪かったのは石切丸もわかっている。何度もいさめたが言葉が通らなかった。自業自得だと、あの部屋の前で震えているときは思わざるを得なかった。何もできない自分をかばうために、之定のせいにするしか無かったのだ。
 だが、あそこまでされることだっただろうかと、自責の念を禁じ得ない。自分は止められたか? 立ち上がれば止められたか? 和泉の出現だけで腰が抜けた自分たちが、まだ反論できた之定より上だったか?
 弱い、ということは、罪なのだ。
 石切丸はそれを痛切に感じ、砂にまみれて泣き伏せる。
 目の前で、親友を、あんな血の池地獄に放置して震えていた自分の矮小さを恨んだ。
 そんな石切丸を見下ろして、陸奥も大きな息を吐く。何か言ってはやりたかった。
 将来的には自分よりはるかに強くなるだろう石切丸と太郎太刀だ。だが、その二人が、今から同じ時を生きたとして、あの和泉を追い越せるか? 今でも、近侍として引くことをせず、一軍隊長を絶対に譲らない和泉が、弱くなるか? 太刀と大太刀の違いを詰められるほど、和泉は手を抜くか?
 この戦国の世に刀を持っている者にとって、強さ以上の『正義』は無い。
 幕末を竜馬と生きた陸奥には、その弱肉強食論は笑い話だが、今は時代が違うのだ。
 刀同士ならば、金属の硬さが最上限の強さの筈だった。
 だが、付喪神として肉の体を手に入れ『神』として人間を超えたものになってしまった現在では、そこにある事実は『経験』でしかない。その経験とは、戦に出た数でもあり、いろいろなことをなし遂げた数でもある。だが、純粋に『存在している長さ』が付喪神の『力』の差だった。
 いまだ、陸奥より和泉に一日の長があるのだ。
 和泉は、自分が力でねじふせたいから、弱くなる気が無い。
 和泉が弱くなる、ということは、近侍を退く、ということ。
 和泉が近侍を辞めるということは、『歌仙を連れ戻す』ではなく、『歌仙討伐』に審神者の考えが変わる可能性が高い、ということだ。
 和泉は決して、威張りたいから強く有りたいわけではない。歌仙のために、自分が強い必要があるのだ。
 『歌仙のため』に動く和泉に、負けは、無い。
 負けは、無いのだ。
 『和泉の負け』は『歌仙の破壊』と同義なのだから。

[newpage]

 みなが集まっているそこに、手入れ部屋の戸が開いた。
「はーいっ! 手入れが終わってピッカピカの歌仙サマでーっす! なんだ、みんないるんだっ! どうよ、俺の歌仙、今日も美人さんだぜっ!」
 和泉の横には、歌仙の浴衣を着た、紫色の髪の之定が呆然と立っている。
 歌仙など、いない。
 いるはずもない。
 陸奥が騒いでいたから集まっていた古参の者たちは、呆然としながらも、笑顔で手を振っている和泉に拍手をしたり掛け声を掛けたりした。そうすれば、和泉が喜ぶのを知っているからだ。
 案の定、和泉は囃されて、機嫌よさ気に腕を振りあげた。
 新参の者は、手入れされきった之定に暴力の跡は見られないので意味がわからず、立ち尽くしている。
 石切丸がさらに腰を抜かし、太郎に支えられた。
「飯食いに行こうっ! 歌仙っ! なっ! 今日は歌仙の好物だといいなっ! まぁ、芋だけどっ」
「和泉ッ! 食堂に栗きんとん作ってくれてるがっ!」
 食事をしなくなった付喪神達は、娯楽のかわりに甘いものを求めた。この時代には高価な砂糖を使わずとも甘く作れるのが栗きんとんだ。いつでも桶にいっぱい用意されていた。短刀達の常備食と言ってもいい。
 和泉が之定の肩を抱いて縁側を歩いていくのを全員で見送り、古参の短刀達がその場に泣き伏し崩れる。
「ナニ? 和泉どうなっちゃったっの? ねぇっナニアレっ!」
「僕たちが何かできることあったんじゃないですか? っ! なにかっ…………あんなになる前にっ!」
「あれ、之定だよねっ? 髪っ! 紫だったよっ? なんで、紫の染料入れてもあんな明るい色にならないでしょ? なんなのあれっ!」
 短刀達にすがりつかれて、陸奥も右手で顔を覆い、黙り込む。
 之定を私刑にしたのはわかっていたが、白髪になるまで追い込んだ和泉に、嘆息した。殺さなかっただけマシだ、と思うしかない。
 之定の部屋を片づけたのは陸奥だ。誰かに頼めるはずも無い。畳みと襖を、血の着いた面を下にして庭に積み上げて燃やした。普段使わない部屋なので、中は畳をあげたままだ。障子は今剣がちょちょいと作ってくれた。
 あの惨状を『生き延びた』之定の髪が白くなったのは、納得できる。
 人間なら何人分の血じゃこれ……と、陸奥は何度も吐きそうになったのだ。
「い……和泉守が………………狂った……?」
 言ってはならないことを石切丸が口にした。
 それに古参の短刀達が石を投げだす。
「あんたのせいじゃないよっ! 之定にあんなこと言わせまくってたあんたたちのせいでしょっ!」
 とっさに太郎が背で石切丸をかばう。
 もともと、石は石切丸にあてられてはいなかった。古参の短刀が投げた石は、当たれば石切丸を瀕死にしただろう。
「今回の出撃だって、之定がへましなかったら歌仙様捕まえられたかもしれなかったのにっ! 
 和泉は悪くないっ! この数十年ずっと耐えてたのにっ! 笑うことさえなかったのにっ! 今になってあんなっ……あんな笑い方っ!
 以前の和泉に戻るなんてっ! 之定が何したのよっ! 頑張ってた和泉に、引導渡したの之定でしょっ!」
「之定さんじゃ歌仙様の代わりになんてなれないのに……どうするの和泉さん……」
 広間を覗いてきた今剣が「和泉さまはわらってしょくじをめしあがってらっしゃいます」と陸奥に報告した。そしてすぐに取って返す。
 明後日の方向に石を投げていた乱の目の前に太郎太刀が立ちふさがった。
 彼は、睨んだりは一切しなかったが、その巨体で自分の半分も無い者の目の前に立つというのは『黙れ』を意味するのだと誰にでもわかる。
「私たちはここに来て以来、『カセン』という者をとらまえるために切磋琢磨してきました」
 感情の読み取れない、深く静かな声だ。
「ですが、『歌仙様』とあなたがたが呼ぶような身分のかたであると、私は説明を聞いたことがありませぬ。新参と古参の壁がそこにあるのだとわかってはいましたが、問う糸口もありませんでした。
 そこは、わかっていただきたい。
 和泉守が何を奮励努力されていらしたのか、私たちは知らないのです」
 とつとつと訴えられて、短刀達も押し黙った。陸奥や次郎が大きなため息をつく。
 歌仙が消失したその時、之定が参画してきた。和泉は号泣し続けて用を成さず、本丸は上を下へとひっくり返っていたのだ。近侍がいなくなり、その代わりになれる者が部屋から出て来ないのだから。どうすれば審神者の部屋に行けるのかも、殆どの者は知らず、城中の戸を開けて回った。
 とにかく、和泉が落ち着くまでは、と新刀達に何も説明せず、そのまま、ずるずると数十年が過ぎてしまったのだ。
 新刀は新刀で、漏れ聞くところからなんとなく推測はできるけれど、問うて良い雰囲気になったことがなく、古参は古参で、新刀が来るとどんな話でもピタッとやめてしまう。今、自分たちは新刀に聞かれて良いことを話していただろうか、と、無意識に思ってしまうのだ。
 秘密を抱える、というのはそれほどに重たいものだった。
 古参がそれでもがんばれたのは、その秘密を知っているのが一人二人ではないからだ。今でも思い出したら泣いてしまう程の、あの、自分の刀身にひびが入りそうな和泉の悲嘆を、『古参は全員知っている』ということが、心の支えになっていた。
「とにかく、飯の時間じゃき。広間行こうぜよ。栗きんとんしかないが。腹ためて考えよ」
 どんな時も努めて笑顔の陸奥に追い払われ、全員がとぼとぼとその場を後にする。
 みな、行きたくなかった。
 なぜなら、そこには、先に行った和泉たちがいるはずだからだ。
 今の二人を、誰も見たくは無かった。
「おうっ! 先にやってるぜっ!」
 入ってきた陸奥たちに和泉は軽く手を上げ、どんぶりに盛られた栗きんとんを掻き込んでいた。三日食べていないのだからそれは減っただろう勢いだ。食事をする癖があった彼らにとっては、やはり『運動すれば腹がへる』という観念が捨てきれないのだった。
 金輪際離すものか、とばかりに、之定の右肘を自分の左肘で抱え込んでいる和泉。これが本当に歌仙と和泉ならなんてほほえましい光景だろう……と、古参達はため息をついた。以前は二人ともそんな感じだったのだ。歌仙はそんな和泉に戸惑っていたが、和泉がまったく隠す気が無いのがありありとわかったのと、一瞬で全員にバレてしまったので諦めたらしい。
 ナニにも執着しなかった和泉の、たった一つの妄執が、歌仙一人の肩にかかっていた。
 大型犬は、膝に乗らないようにしつけなければならない。いくらかかわいい仔犬の時でも、膝に乗せて遊ばせていれば、巨体になっても乗り上げてきて膝を潰される。
 和泉の、歌仙に対する愛情もそんな感じで、最初に和泉を甘やかせた歌仙の失敗だったのだ。
 あの激情でもって、全身全霊を賭けて歌仙を愛した和泉。
 歌仙はまだ、器が広かった。和泉のワガママを甘やかせる手腕も余裕もあったのだ。実年齢としても、経験値としても、歌仙の方がはるかに上だったから。
 之定が耐えられんくなった時に、もう一波瀾あるぜよ……と、陸奥は次郎と目を見交わす。
 かつかつと箸を進めている和泉とは反対に、之定は茫として箸も持っていなかった。
「本当に歌仙様みたいだ……」
 短刀達がひそひそと囁き合う。
 元は同じ顔なので似ていて当然だった。和泉が切ったらしい髪がざんばらであること、色が青紫であることを覗いては。歌仙は、桃色に近い紫の髪だった。そんな微妙な色合いを、意味も知らずに買ってきただけの染料で出せるはず無い。だからこその、わずかな差。
 カツカツと和泉が笑顔で食事をしている横で、たまに我慢が切れるのだろう滂沱と涙を流す之定。どうした歌仙? と和泉に伺われ、慌てて顔を拭く彼が、石切丸は不憫でならない。何かできないか、何か和泉に進言できないかと思うのだが、和泉の笑顔が恐ろしいし、之定が黙っているのでかばうこともできない。
 あれでいいはずが無い。だが、逃げてくれないと助けられないのだ。逃げた方が危険だと之定が考えているのならば、ここで石切丸が彼を連れて出た方が危ないのだから。
「なんだよ歌仙、全然食べてねぇじゃねーか」
 之定は、和泉に差し出された小鉢を見て、和泉を見て、もう一度小鉢を見て、どうにか箸を手にとった。だが、病かと思うほど手が震えて、箸がぽろぽろと落ちてしまう。
「なんだ? また手を痛めたのか? また代筆とか言うなよなー。ほら、あーん」
 和泉の箸が栗を突き刺して之定の口元に差し出される。一番美味しい栗をやるのは間違いなく親愛の情を示す行為なのだが、今の之定にそんなことが理解できるはずも無い。之定の体が一瞬で硬直し、膳が跳ね上がって皿が散乱した。栗きんとんは器が倒れても流れ出るようなものではないので、板の間が汚れるようなことにはならなかったことに、掃除を担当している短刀達が場違いにも胸をなで下ろす。
 和泉はにっにこと之定にアーンを続けていた。
 之定の目が、その箸の先端と和泉の手、和泉の顔を何度も往復する。
 そういうことを万座の中でされることが恥ずかしいのではない。あれだけ暴力を受けた男に、尖ったものの先端を突きつけられていることが純粋に怖いのだ。食いしばりすぎて歯茎から血が溢れるほどに。
 どうしても、之定は口を開けることができなかった。口という弱点を、和泉にさらすことができなかったのだ。その背中を和泉に撫でられ、また跳び上がる。
「和泉守、しばし待たれよ」
 やっと声を掛けられた石切丸のそれを、之定の悲鳴が遮った。
「ごめんなさいっ、本当にごめんなさいっ! 僕の口が過ぎましたっ! 本当に許してくださいっ! もう許してくださいっ!」
 差し出され続ける『アーン』に、之定が怖ぞ気を振って後ずさり、土下座した。
 今までの居丈高さなど微塵にも無いその風情に、古参は目を逸らし、石切丸と太郎以外の新参は目を見張った。
「どうしたの歌仙? これ嫌いだったっけ? なんか、材料がどこそこで取ったものと違うとか、言う? じゃあこれはー?」
「本当に許してください。もう許してくださいっ! お願いですからっ!」
 『アーン』の箸を一端自分の口に突っ込んで、和泉はニコニコと之定を見た。
 その目に、之定は震え上がる。
『今日からお前が歌仙だ。
 愛してる……歌仙…………俺の歌仙……』
 和泉に殴り込まれたあの晩、否、もう明け方だっただろう。之定は、感覚の無くなった頬を舐められながらそう囁かれたのを思い出す。
 追捕されている罪人の代わりなど冗談ではなかったが、和泉の紅い目に微笑まれ、ガチガチ鳴る歯で、『否』を言えるわけが無い。コクコクと震えながら頷いた之定の頭を優しく撫でて笑う和泉に、ただ、之定は涙した。
 ここが大広間だと言うこともわからず、之定はただ、床に額を擦りつける。
「昨日教えたよな? 歌仙はそうじゃない、って」
「ひっ……」
 之定の、喉を引きつらせるような悲鳴と、陸奥たちの驚愕は同時だった。
 陸奥は咄嗟に石切丸や次郎達と顔を見合わせる。
 和泉は、狂ったわけではない。之定に、わかっていてコレをしているのだ。
 之定を歌仙と勘違いしているわけではない。
 嫌がらせ?
 懲罰?
 否。
 陸奥も石切丸も、ごくりとナニカを呑み込んだ。
 和泉は決めたのだ。
 之定を、歌仙だと。
 決めたのだ。
 歌仙の代わりを本丸に据えつけることを。
 自分が愛する者を、無理矢理、之定に決めたのだ。
 自分が狂ってしまう寸前に。
 まだ、和泉は踏みとどまっていた。
 断崖絶壁の崖っぷちで。
 だがそれは、之定の苦境を助長するだけだ。
「和泉守。之定は歌仙殿ではありません! 和泉守!」
 万座の中で立ち上がった石切丸が訴える。之定が一瞬石切丸を振り返ったが、すぐに和泉に向き直り、その手が和泉自身の腹に動いたことに身をすくませる。
 之定には、和泉の手がどこにいくのかが怖いのだ。
 石切丸が今助けてくれようとしているが、どう考えても和泉の方が強い。之定はたしかに、古参達に愚挙を続けた。けれど、自身は二代目之定だ。あの、歌仙と同じ知能を持っていて当然なのだ。
 その思考を結集させ、ただ、和泉にだけ注視して、彼の一挙手一投足を見つめている。
 自分への被害が最小限になることだけを考えているのだ。そこには、きっと助けにならない石切丸の存在など、入る隙が無い。大体、自分が石切丸に助けを求めて、石切丸が和泉の前に立ちふさがれば、今の石切丸など和泉の腕の払い一つで首が飛ぶ。
 之定も石切丸も、背は伸びたが、まだ子供だった。
 付喪神の『力の差』を、古参は出さないようにしてくれているから、気づけなかったのだ。
 之定は、自分の体で感じたのだから。
 笑いながらの和泉に、爪先でふわりと頬を撫でられただけでざっくりとえぐれた自分の肉を。突き込まれた和泉の根が、自分の内臓をグチャグチャに引き裂き、全身の穴から血が噴き出したあの激痛を。腕を畳に押さえられただけで、桜餅のように潰れて砕けた自分の肘を。和泉に抱えられていた太股は、和泉の指が動くたびに肉が持っていかれ、骨が見えていた。手入れ部屋に連れて行かれたときには、四肢も首も、『繋がっていた』だけだったのだ。
 人間ならば、死ねていた。
 神だからこそ死ねず、神だからこその力の差がそこにはあったのだ。
 『穏やかな近侍』であらざるをえなかった和泉の『優しさ』を、之定は切実に感じた。
 彼が動けば世界が砕け散るのだ。
 だからこそ、彼は静かだったのだ。
 僕が、その、最後の一線を越えさせてしまった。
 恐怖の中にも、之定はそれに気づいていた。
 気づかなければ、和泉を恨んで終わりだったのに。
 気づかなければ、自分が悪いとは思わなかったのに。
 歌仙と同じその頭脳は、自分が巻き起こした自分の不幸を、如実に分析してしまったのだ。
 石切丸は助けにならないが、それだからこそ、石切丸に声をあげさせて、和泉に破壊させるわけにはいかない、と之定は思った。
 こんな事態なのに、助けてくれようとしている彼に、そんな不幸を味わわせたくは無い。
 だから、之定は、和泉以外を、見なかった。
「あー、食った食った! 俺ぁ、審神者から一月ほど砂風呂にでもつかって来いって言われたから、とりあえず今日はもう寝るなーっ! 急用以外で俺の部屋来んなよっ! じゃっ!」
 勢いよく右手を上げ、和泉は之定をかっさらって消えた。
 本当に、以前通りの和泉だ。
 そういえば、今の和泉は目に紗を巻いていなかった、とみな、彼が出て行ったあとで気づいた。白目は依然赤かったが、常に笑顔だったのでそんなに気にならなかったのだ。
 石切丸は、震えながらその場にへたりこんだ。
 あの、之定を持って行こうとした和泉の前に立ちふさがりたかったのに。
 和泉は自分の席から立ち上がって縁側に出る間に、ちらりと石切丸を眺めて行った。
 否、石切丸を特定して見たのではない。
 彼はたんに、そこにいる者たちに席を辞す挨拶をしただけのつもりだっただろう。
 口も目も、笑みの形にほころんでいた。
 けれど、その紅い目と視線が会った瞬間、石切丸は、もう、足が床に張りついて動かないことを感じたのだ。
 之定と石切丸や太郎太刀は同じ時期にこの本丸に参画した。つまりは、ほぼ同じ年齢で、幼なじみと言っても良い間柄だ。
 之定は、たしかに性格は一部良くない部分があったが、神刀になりたくて、必死に石切丸のあとをついて勉強に励む頭のよい少年だった。石切丸がすることはなんでもしたがったし、実際、すぐにできるようになった。元々の頭が違うのだな、と何度石切丸は感心しただろう。
 その彼が、全神経を集中させて和泉を見ていた。
 石切丸では助けにならない、とわかっているからだ。それが石切丸にもわかって、己の力のなさに歯噛みする。背を撫でてくれる太郎の手が唯一の救いだが、彼も和泉に立ち向かおうとはしなかった。だが、彼はもともと、他人にかかずらう性格ではない。之定が石切丸と太郎太刀の傍に居たがったから、自然と一緒にいただけだった。
 今生で、彼らの10倍以上の時間を生きている和泉守兼定。とても、彼ら三人が立ち向かえる相手ではない。
 之定を魔神への生贄に出したような絶望感が石切丸を苛んだ。
 だが、座は、座ってしまった石切丸がもう見えないので、和泉がいなくなったことで少し明るくなった。なんといっても、本丸の人払いのおかげで、新刀で之定の身に起こったことを知っているのは、太郎と石切丸だけだったのだから。
「和泉守ってあんなお顔してらしたんですね。なんのためにお隠しになられていたのですか?」
「目が赤かったじゃろ? あれが、突然なったき、不気味じゃろて隠してたんぜよ」
「ああそういえば、白目が赤かったですね。けれど、それほど不気味だとは思いませんでしたが」
「稀に見る美丈夫じゃのーっ! カカカカッ!」
「そうよねぇっ! 色男が顔隠してたからアレだったけど、今日は眼福だったわー」
 新参は之定のことをよく知らないし、知っていても、大体の刀は『肉を切って』いるので、之定に蔑まれていて、彼に好印象を持っていない。
 古参はあの和泉に少しだけ気を抜いた。新参から見てそんなに変に見えないのならば、彼らにはその方が楽だったのだ。
「……も…もしかして……之定様が……歌仙様のようになって……く…くださったら、全部丸く……収まるんじゃ……? ない…………ですか……?」
 こういうときには物おじしない五虎退が呟いたのに、古参は納得してしまいそうになる。それではあまりに之定がかわいそうすぎないか? という心は噛み砕いて呑み込んだ。
 今回の出撃でミスをしたのも之定だし、和泉の最後の一線を切ったのも彼だ。
 誰かに責任をなすりつけて、みな楽になりたかった。之定一人が我慢すれば、和泉は前の和泉に戻ってくれることだろう。古参には、新参の之定より和泉の方がはるかに大事なのだ。
 和泉が以前通りになってくれたら、本丸は天国なんだよねー、というみなの心が広間に充満していた。
 


[newpage]

 その数日後、短刀の部屋に之定が現れたことに短刀達はひっくり返って驚いた。之定は紙と筆を持って平身低頭だ。
「夜分に突然済まないが……歌仙様のことを教えてもらえないだろうか?」
「大丈夫? 和泉追い駆けてきてない?」
 乱が縁側を確認する。
「先程お眠りになられたので、大丈夫かと……」
 こちらも眠いのだろう之定が、目をこすりながら、ですから……と、短刀達を見やる。その喉元に花びらが散っていてみな目を逸らした。和泉が愛用している梅の香りが部屋に充満していく。歌仙から貰ったんだ、と律儀に着物に焚き締めていたものだ。之定は藤の香りを愛用していた筈だと、乱は覚えていた。歌仙も藤が好きだったから、そこは一緒なのだ、と懐かしく思ったのだ。
「えっと、歌仙様の何を聞きたいの?」
「しぐさとか、ものいいとか、口癖とか……歌仙様らしくならないと……いけない……ので……」
「でもあんた歌仙様じゃないんだし、無理しない方がよくない?」
「でもっそうしないと僕っ……」
「似てないって和泉が殴るの?」
「いえっ……殴られることはもう、一度も……無い、です…………凄く優しくて………怖いぐらいで……」
 之定の青ざめていた顔が、少し赤くなった。
 最初の晩は怪我に怪我を重ねられて拷問でしかなかったが、一度手入れをしたあとの和泉は、骨が溶けるほど優しかったのだ。膏も使ってくれたし、二日掛けて慣らされた。昨晩は自分から『挿れてください』とねだったのだ。
 あんな快感、知らなかった。
 何度果てまで追い上げられただろう。そのたびに見える和泉の優しい笑みが、之定の中ではあの狂気の魔神を塗りつぶして行ったのだ。
 もう、本当に痛くはないのだろうか?
 と、之定は和泉を眺める。
 あの一晩だけ常軌を逸したのならば、やはり僕が悪かったのだ……
 あまりの和泉の優しさに、之定はもう、そう考え始めていた。まだ、緊張が完全に解けた訳ではないけれど、手入れされて健康体になった体に、和泉の愛撫は媚薬以外のナニモノでもない。之定も歌仙と同じ刀。性感帯が同じだった。
「まー、和泉は元から暴力奮うような奴じゃなかったしねー」
「はい……過日の騒ぎは、僕の不徳の致すところと自戒しております」
 あまりにヘリ下られて、短刀達は苦笑してしまう。
「そういうのが歌仙様じゃないわ。歌仙様はいつでも自信満々で、穏やかだけれど、和泉より高飛車だったもの」
「……の……之定さんの前の雰囲気で、……『和泉』と……呼び捨てにするだけで……い……いいと思いますよ……歌仙様も……厭味、凄かった、ですから……」
「あんた、何気にきついよね、虎ちゃん」
「そ……そそ……そうですか? すみません。で……でも、歌仙様のように、という……之定さんのご希望が…………あっ!」
 カンッ、と障子が勢いよく開いて、あくびをしている和泉が現れた。
「何してんだお前、布団冷てぇだろ!」
 言葉も終わらぬ内に、之定の腕を引っ張り肩に担いでしまう。
「じゃりじゃり、早く寝ろよー!」
「和泉も早く寝なさいよっ!」
「ずっと寝てたさーっ! はははーっとなっ!」
 後ろに手を振られて、短刀達は暗い廊下に消える巨体を見送った。之定はしんなりと肩にぶら下がっている。
「もしかして、けっこう早めにどうにかなるのかしら?」
「之定さん、もう震えては……おられなかった……です、よね?」
「そりゃ、和泉に三日やられどうしなら、頭ふっとんじゃうんじゃないー」
 突然、沸いて出た次郎にニコと微笑み掛けられ、みな慌てて布団に潜って灯を消した。彼のシモネタは、まだ短刀達には早すぎるのだ。
「くそっ、色男の話で盛り上がれるかと思ったのにっ!」
 闇の中で次郎が舌打ちする。
「今日も歌仙様に会えなかったんでしょう?」
 月明かりの中、出撃部隊にいた次郎に声がかかった。
「まー……もともと、和泉しか探れないお人だからねー。うちらの誰より強いんだし……和泉でも、片手でいなすようなお人だからー。なにが文系なんだか。一番体育会系の癖してさー」
「ぼ……僕、思ってた……んです、けど………………歌仙様、が出現、するの……って、………和泉様がナニカを見間違った……と……いうことは、ない、でしょうか?」
「え? それって、和泉が、歌仙殿がいるって嘘ついてたってこと?」
「嘘……とは、申し上げてない……です……けど。…………和泉様がその……集中しすぎて、……歌仙様の面影をナニカに見立ててたとか……」
「和泉がすでにイッちゃってて、幻覚見たってことだろ? アタシらもそれを疑ってたんだけどさー」
「でも、こないだの之定のミスは、和泉が歌仙様を見つけた時に、『自分と同じ顔だ』って声を出したことなんだから、実際にその時、歌仙様はそこにいらっしゃったと思うのよねっ」
「あ、そ……そそそ……そうですね…………之定様もごらんに……なったのですものね…………すいません」
 謝るように、虎もキュウ、と鳴いた。

 そのあとも、之定は和泉が寝た隙を繰って短刀達に歌仙のことを聞きに来た。之定が来ると聞いて、陸奥や次郎まで短刀の部屋を訪れるようになり、歌仙物真似パーティーとなることも多い。
「だから、あんたの以前のあの高飛車な態度で、『和泉』って呼び捨てにすればそれでいいんだってばっ!」
「以前の僕ってそんなに気分悪い存在でしたか? すいません……」
「歌仙殿と言やぁ『雅びではないね……』ぜよ!」
「アタシも何度言われたか……へへっ」
「戦場以外では絶対に大きな声も出さないかただったし」
「歌仙様、柏手の音が凄かったですよね!」
「拍子木みたいなカーンッて音を立てるのよねっ!」
 之定がパンパンと手を合わせてみる。祝詞を唱えるときにもよくするので、之定の手も木槌を鳴らすような音が出た。それにみんなはしゃぎまくる!
「そうそうそんな音! そんな音! 広間で全員が大騒ぎしてるときでも、一瞬で静まりかえるよね、あの音。板の間に響いて耳痛いったらっ!」
「それ、一度みんなが騒いでるときに和泉の前でしてごらん? 凄く和泉、嬉しがってくれると思うよ?」
「そ……そうですかっ! 是非、してみますっ!」
「歌仙様はね、雅びな言葉しか口にしないの。『うるさい』じゃなく『穏やかではないね』って」
「そうそう、『早く食べろ』とかも『冷めてしまうよ?』だよねっ!」
「それとか『冷めてしまっただろう? 取り替えようか?』って」
「そうそう、『裾が乱れているよ』じゃなくて『裾まで美しく装おうか?』って」
「あたしそれで取り替えて! ってお代わりしたら、笑われたわ……あの人の言葉は額面通りとっちゃいけないんだよねー」
「ぶぶづけたべておいきなさい……ですよね」
「そうそうそうそうそう! なんか京風なんだよね、あのかた」
「一番怖い人なのに、日常だとおっとり見せて騙してる」
「なぁ、おんし、歌仙様て呼ばれて、かまんが?」
 騒いでいるみなを尻目に、陸奥が之定の肩を掴んで真正面から問うてみた。
「歌仙と呼ばれることが平気か、ってことなら、別に、今は……なんとも………………」
「げにまっこと?」
「陸奥、それじゃわかんないって。本当になんとも思ってないのか、って」
「もともと、侍は名前が変わることが珍しくはないですし、刀はそれこそ、主君の命名で名前が変わりますから」
「イの字が主やき、かまんが?」
 之定が次郎に視線で助けを求めた。
「和泉を主と感じたから、もう名前とかどうでもいいのか、って。もう陸奥は、よくも何十年ここにいて、方言が抜けないよね、あんた! どんだけ強情なの」
 陸奥が何か言い争っていたが、之定は少し俯き、顔を上げた。
「最初は、殺される前に死のうと何度もしました」
 突然の告白に一堂が目を見開く。
「僕を嘲笑するあのかたが怖かった。化物だと思いました。でも、今はとても優しくて……」
 カァッと顔を赤くして、また俯く之定。うっとりした視線で自分の指先から床を見つめ、障子を見上げる。まるでそこに和泉が現れたかのように。短刀も何人かがその障子を振り返った。
「寝ているときにたまにお泣きになるんです。その涙が紅いんです…………だから、布団も枕も絨毯も、紅いんですね……
 和泉様は、そうしてまだ歌仙様のことで泣いているから、目が治らないのですね」
 あー……と、次郎や陸奥が嘆息する。衣が赤いのはそれ以前からだが、布団まで替えたのはそれが理由だ。いまだに、堀川がそのことでたまに泣く。今生では和泉の方が歴史が長いから、堀川はただ、身の回りの世話をするだけなのが口惜しいらしい。
「僕が、そうなることで、少しでもあの涙が止まるなら…………」
 之定のほうが、泣いていた。
「僕はまだ、和泉様を思って血の涙なんて出ません…………あのかたがどれだけ歌仙様を想われているのか、そこに僕が追いつけるとは思いませんが…………それであのかたが笑ってくださるのなら、……いい、のです」
 短刀達も涙ぐむ。
 陸奥もじわりと来たが、次郎を見た。喋るなと言われたのでお前が言えと顎をしゃくる。
「でもねぇ、和泉は必ず歌仙様を見つけるよ? その時あんたどうすんの?」
 馬鹿な質問だ、と次郎も陸奥もわかってはいた。
 『歌仙を捕まえた』というのは『忠興を殺す前』ということだ。殺したあとに捕まえても意味がないので、その時はまた時間を遡らなければならない。
 つまりは、『歌仙を捕まえた』時点で歴史は修正され、之定は消えるのだ。
 忠興を殺した瞬間歌仙が消えたように。
 だから、この質問は愚問なのだった。
 それを考える時間も、対処も、之定には手が出ないことなのだから。
「かまわないです」
 之定は真っ直ぐに陸奥の瞳を見つめて言いきった。
「僕も、歌仙様も、二代目兼定に違いはありません。和泉様が愛してくださるのは、二代目兼定だから」
 之定は自分で頷いて、瞳を伏せ、開けた。そして、自分の胸を両手でそっと押さえる。
「最近、和泉様に愛を囁かれるたびに、僕の内側で、僕とは違う人がくすくす笑っている気配があるんです」
 之定も、くすくすと笑った。
 その顔が、『雅びではないねぇ……』と、歌仙が笑っていたそれに見えて、一堂がくちびるを噛む。
「歌仙様は、僕だと、思います」
 之定は、言い切った。
「人を斬りたくなかった歌仙様の心が、そのまま僕になったのだと、思い、ます」
 陸奥を見て、次郎を見て、また、自分の拳に視線を落とす。
「僕が和泉様に愛されて、歌仙様も喜んでくださっていると、思って、います」
 それはどうじゃろうのう……と陸奥は思ったが、口には出さなかった。こういうところは歌仙と同じ、唯我独尊なのだ。
 自分の恋人が他人を好きになる、ということだから、普通なら歌仙が喜ぶなどと思わないだろう。
「どのみち、将来なんて僕ではなくても誰にもわからないものでしょう?
 何も気になりません。
 和泉様が傍にいてくださったら」
 クスクスクス、と之定が笑った。
 それが歌仙のそれと重なって、陸奥も次郎も背筋を震わせる。
 たしかに、歌仙と之定は『同じ刀』なのだ。
 黙り込んだ陸奥を前に、之定が顔を上げる。
「和泉様がお起きになられそうです。失礼しますね」
 和泉の部屋なんてここから遠いのに? と陸奥が次郎と顔を見合わせる。
 ぱたぱたと立ち上がって出ていった之定は、廊下に石切丸が立っていたのを振り返った。部屋に入れず立ち聞きしていたのだ。
「僕を、助けてくれようとしてくれていたよね。礼を言うのが遅くなってすまない。ありがとうね、石切丸」
「……私は……何もできなかった」
「あの和泉様相手に助けようとしてくれたことが嬉しいよ。本当に、ありがとう」
 月明かりは庇の向こう。石切丸の顔は之定からよく見えなかったが、少し震えているのはわかった。
「君は、今、幸せなのかな?」
 之定、と呼ぼうとして、石切丸はくちびるを噛んだ。次の瞬間、之定に抱き締められて、柱にぶつかる。
「幸せだよ、凄く、幸せ。君のおかげだよ」
「私は、何もできていないよ」
「ううん。君がいてくれたから。
 僕を助けようとしてくれた君がいてくれたから、僕は、耐えられた。狂わずに済んだ。
 だから、和泉様は僕に優しくなってくれた」
 君のおかげだよ、ともう一度囁いて、之定は静かに廊下を歩いて行く。
 その場でうずくまって泣いてしまった石切丸は、短刀達に部屋に引きずり込まれ、茶を振る舞ってもらった。
「あの子が笑えるようになってくれて、良かった……です……」
 石切丸は、幼子のように微笑んだ。


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作成日: 2015年5月11日(月) 11時26分原稿

作成日: 2015年5月12日(火) 03時35分

作成日: 2015年5月14日(木) 11時05分

作成日: 2015年5月17日(日) 19時06分

 

 

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